ダイエット

うちの同居人と付き合うようになってから、太ってしまったようです。洋服のウエストが、く、苦しい(~_~;)

うちの場合、外に出て食事をする機会があると、(たいていは彼の趣味で)こってりしたイタリアンなどを選んで、けっこうカロリーをとってしまいます。ちょっとおやつにと甘いものなど買っておくと、同居人は夜中であろうと目ざとく見つけ出して「なぁなぁ、これ食べていい?」とくる。もう寝る前だから駄目だというと、食べさせてくれるまでねばっている。私が頑として応じなければ、「じゃあ、あんたも一口食べ。二人で半分こにしよ」と懐柔にかかる。食べないというと、口元まで持って来て、食べろと強要する。あとで、「自分だけ食べて」となじられないための姑息な予防策でしょうが・・・
なお悪いことに、私ができるだけ計画的に食べようと思って買い置きしていても、彼は、あればあっただけ食べなければ気が済まないらしいのです。そのうえ、帰ってくるといつも冷蔵庫をのぞき込んで、何かおいしそうなものがあるかチェックしている(-_-;) その後ろ姿がなんとも情けないと思うのは、一緒に暮らす者として間違っているでしょうか(-.-) いっそ、買い置きしなければいいと思うんですが、これはこれで「なんで買ってこないのか」と怒る。もう処置なしです。こんな彼に合わせているうちにこっちまで太ってきた、という具合。

だいたい見ていると、太っている人は食べ物に貪欲なんです。彼も痩せているとは決して言えないし、うちの母だって、弟だって、そう。普通より肉のついている人はみんな、たとえ見かけの食べる量がすくなくても、カロリーや時間を気にしないで、食べたいものを食べたいときに食べたいだけ食べる傾向がある。我慢するということがないんです。まあ、人間それで太らなかったら幸せですが、そんな生活していると、たいていの現代人は運動不足なので、カロリーオーバーして太ります。よく、太っていることについて、体質だの遺伝だのといいますが、要するに、必要を超えて食べるから太る。根本はこの一点に尽きると私は思ってます。入ってくるものがなければ、それが身になりようがない。
それから、太っている本人は、コトバのうえで「太った太った、どうしよう」というほどには、気にしていないように見えます。ダイエットに挫折した、などというのは、端から見れば、そんなに気にしていないからなのかと思うんですね。うちの同居人も、「あと五キロ痩せる」といいながら、そのくせ低脂肪牛乳を飲むのを嫌がったりします。まずいというんですね。そりゃ、多少まずいのはわかっていますが、痩せるという目的のためにそうしているわけです。これが我慢できないのはなぜかと私は訝ります。やる気がないんじゃないかと思うんだけどそうでもないらしい。どうも、様子を見るに、この種の人たちは、食べることが好きなんです。
食べることが好きだから、たとえダイエットのためでもまずいものは食べたくないし、空腹を我慢したくはないわけです。

私だって、まずいものより美味しいものがいいし、カロリーなんか気にしないで好きなだけ食べたい。でも、やっぱりそれは自分でセーブしているんですよね。まあ、健康のためなんていう体裁ではなく、食べ物よりも、もっと自分の見映えのほうが大事だと思うからなんです。実際、あまり太っていると、どんな服を着ても着崩れしてだらしなくなったりしますし、もしも気に入った服のチャックが試着室で閉まらなかったら、どんなに屈辱的なことでしょう。
自分自身の見映えをとるか、食べ物をとるか。
うちの同居人は、今のところまちがいなく食べ物をとっている。もうオジサンだからと諦めきったのでしょうか。まだ三十代だというのに、この老人力は一体なんなのよ。でも、私はめげません。ちょっと気合を入れて、私だけでもダイエットに取り組むことにします。


外見年齢

ダイエットについて書いたら、うちの同居人がそれを読んだらしく、シュンとしていました。帰ってくるなり「あれ見て、悲しくなった」といって、すねている。珍しいことです(~_~;)
まぁ、それでもやっぱり寝る前には、「このヨーグルト、食べてもいい?ヨーグルトだったらカロリー低いやろ?」が始まるんですが・・・(-_-;)

見映えの問題って、自分がいつオバサン・オジサン化するか、という問題につながってると思うんですよ。
男女ともに、歳をとるにつれ、身体のラインは崩れてくるし、髪が薄くなったり、しわができたりします。これって仕方ないんだけど、自分の努力でカバーできる部分もありますよね、とうぜん。だから、個人が自分の見映えをどこまで気にするかで、同じ実年齢でも見た感じはずいぶん変わってきます。十才ぐらいは平気で若く見えたり老けたりする。そういう「外見年齢」って、今やじつはけっこうどうにでもなるんですよ。洋服や持ち物の選び方や化粧やなんかで。だから、言ってみれば現代人は、自分の好きな時期にオジサン・オバサンになったり、オジイサン・オバアサンになったりできるんです。

実年齢より若く見えるように努力し続けることは、健康でしかも経済的ゆとりがあればずっとできますが、難しいのは、いつの時点で努力を放棄するか。たとえば、うちの父だと、ある時期から白髪染めをしなくなった。白髪を隠す努力をこの時点で放棄したわけです。見かけ上も初老の人であることを受け入れた、ということですね。でも、この「時期の見極め」というのはけっこう微妙じゃないですか。早すぎれば、実際の歳より老けて見えて損だし、遅すぎれば、なんだかいつまでも若ぶっているようでイヤらしい。オジサマに人気の某女優なんかは、いつまでも清純派少女趣味路線で、超人的な外見年齢の若さを誇っていますが、そこまで徹底した努力というのは、見ていて逆にオソロシイ。「アンタ、それ以外に考えることないの?」という感じも。

私自身は、う〜ん・・・わからないですね。まぁ、普段、どっちかというと老けてみられることはないですが。
服やなんかのせいだと思います。私、いわゆる「オトナのいい女」路線って、キライなんですよね。似合わないし。気ィ使うし。わははって大口あけて笑えない感じでしょ?そういうの、肩が凝ります。それに、お金もかかる。それなりの高級感ださないと駄目でしょ?チープな「オトナのいい女」なんて、見たことない。
でもねぇ、三十代になって、いつまでも二十代の女の子たちと同様の格好、というのもどんなものかと思ったりもします。そろそろ私も、(オバサンになるのは嫌だから)「マダム」になる時期なのかな?でもでも、なんか自分に合わない感じもするしぃ・・・
ああぁ〜、悩みます(~o~)
ということで、うちの同居人に、こういう話をしたら、「マダムぅ?別にそんなんにならんでも、そのままで押し通せばいいやん、第一あんたには無理やねんから」と、けらけら笑っている(-_-;)
その彼の顔をしげしげ見て、私にも深くナットクするところ有り。
それは、私が「かっこいいマダム」になってしまったら、この彼の隣にいるのは絶対にミスマッチになるであろう、ということでした。なにしろ、この同居人、とてつもなく若く見える人なんです。私はときどき、この人、ほんとは五歳ぐらいなんじゃないか、と思うことがあるくらいですから(-_-;)
まさに、超人的です。


かっこいい大人

「今時の若者は」って、私たちもいわれました。まぁ、ちょっと昔の話ですが。
新人類、とか。何を考えているのかわからない、とかね。
こういうせりふって、だから、いつの時代でもあるジェネレーション・ギャップなんです。それは江戸時代にだってあったし、なにも、「今時の若者」という言葉が特定の世代を指すわけではなくて、順繰りに立場が変わっていってるだけなんですね。私から見ると、ティーンエィジャーから25、6までぐらいが今時の若者、ということになるけれど、私自身も団塊の世代などから見れば、とうぜん、今時の若い人は、ということになる。

さて、高校での短期バイトが終わって、ほっとしています。
一ヶ月という短い間でしたが、なかなか有意義な時間を過ごせました。朝早く起きるのは嫌だけど、センセーの仕事は偉そうにできるのでラクです(^^) 何がしんどいかって、職場の上下関係ほど馬鹿馬鹿しく憂うつなものはないですからね。その点、教師稼業は生徒あいてにときどきお説教していればよろしい。
学校だってその他おおぜいの例にもれず、タテマエとホンネが同居している場所です。学校全体で、とか、教師同士になると、「教育は(学校は)かくあるべき」というタテマエが前面にでてくる。でも、教室で生徒あいてになると、怒涛のホンネ世界です。学校全体が関わるような問題が起こるとタテマエで対処、教室内で収められる問題なら、各教師のホンネで判断、ということになるでしょうか。
いや、教室でもタテマエを押し通したっていいし、仕事としてはそうすべきなのかもしれませんが、まぁ、そのへんは教師のキャラクター次第だと思いますね。私自身は怒涛のホンネ世界のほうが気楽なので、自然とそうなってしまう。とくに難しい生徒に対して、タテマエを押し通すのは非常な力技なので、なかなか私のような非力な人間にできることではありません。
たとえば、授業中の私語をやめさせるのに成功するとき、力のある教師なら、生徒に
「授業を受ける態度としては良くないから、おしゃべりはやめよう」と思わせる。
それが私のように非力だと、生徒は、
「センセー怒ってるし、かわいそうやから、しゃべるのやめといたる」という感じになるわけです(~_~;)

高校生というと、誰から見ようとまぎれもなく「今時の若者」または、「今時の子供」ということになります。マスコミなどは、やたら、子供が変わったといってセンセーショナルに騒ぐのが好きですが、そんな言い草は昔から順繰りにあったことで、人間の考えることの中身なんて、そうそう変わるものじゃないでしょ。もし、それが変わっていくのなら、人類はもっと精神的に進化しているだろうと思いますが、三千年前のギリシャ文明時代から、そんなにかけ離れて高尚になってますかね、人間って?
ともかく、私の印象としては、考えている中身は異性のことだったり、ファッションや遊びのことだったりしてあまり変わりはないんだけれど、変わっているのは常識とかモラルとか、そういうものだろうと思います。何を考えているかわからない、といわれるのは、そのあたり。これは、若者が変わったというよりは、世の中全体の常識が変わった結果なんで、その原因を当の若者たちに求めるのは筋違いかも。若者というのはいわば、リトマス試験紙みたいなものなんだと思います。全体の変化の結果が、そこに顕著に表れてくる。子供というのは、刷り込まれやすいし、まだ上手に演技したり、やっていることを隠蔽したりできないからですね。本人たちはそれをやってのけていると思っていても、たいてい「頭隠して尻隠さず」です。お尻を見つけられない大人がいるとしたら、子供が狡猾になったというより、大人のほうがうっかりしているんです。

子供なんて、そもそも親の庇護のもとでしか生きられない存在ですよね。だから、本来、親の常識がその家の常識になるはず。いままでの常識の通じない子供が多くなってきた、というのは、それを許している子供の親や周りの社会があってこそ、なんです。いくら情報が氾濫していて、子供がそれに振り回されていたとしても、お金や実権を握っているのは大人ですから。たいていの子供は親がいないとパソコンひとつ買えないはずです。アルバイトで稼ぐだの何だのといっても、親が強権を発動してバイト先をやめさせることだってできるんですから。本気になればね。ところが、どんなに呆れた事態になっても強権を発動しない、またはできない家庭や社会だと、どんどん手に負えない子供が増えてくる。

私、思うんですが、愛は「押しつけ」なんじゃないですか。あなたのために、といいながら、親が最善だと信じるものを押しつけるのが愛情ある態度だと思うんです。子供には迷惑だと感じるかもしれない、でも子供と大人は経験や判断力において、やはり対等ではないんですね。そのへんが同世代の男女間の愛のあり方とは違う。あなたの好きなようにと、ものわかりのいい親をやっているのは、自分がパチンコしたさに子供を車内に放置する親と同じかもしれないと思うんです。子供から一歩も二歩も「引いている」。
かく言う私自身、よその子供が何をしても、注意なんかしません。こちらの身に降りかかってくる危険があれば、警察へ突き出しこそすれ、面倒な注意なんてしないでしょう。他人の子に、そこまでの愛情もてないんですね。本気で注意したり叱ったりすることは、非常に消耗するからです。でも、自分の子供、自分の身内だったらどうでしょう。やっぱり真剣に意見するんじゃないでしょうか。時には思い切りひっぱたき、時には口汚なく罵ったとしても。
頭を押さえつけられているのは子供にとって不快かもしれませんが、でも、自分の意見も言えないような親だと、いないのと同じです。そういう親の子供は、孤児なんですね。孤児だから、誰からもしつけてもらっていないように見えるのは、むしろ当たり前です。
社会の変化にともなって、いままでの常識の是非を疑ったとしても、だから大人自身が何も考えないで子供のいうことを聞いていればいいということには決してならない。愛があれば、自分自身でも何がいいか考えに考えて、最善と信じる選択を子供に提示、時には押しつけていくもんじゃないでしょうか。先端の技術や情報を知っていることと、よりよく生きるすべを知っていることとは、まったく別の話なんです。パソコンの使い方なんか、親に習わなくてもかまわない、親や社会が教えるべきことは、そんなことではありえません。

ところで、まだ私がハタチそこそこの頃、ずっと年上の人に会うとよく言われたのが、「若いねー、今が一番いいときだね」。
私はこの言葉が嫌いでした。私はこれからずっとまだまだ生きていくつもりなのに、まだ何もしてない人生がこのさき、あり余っているのに、今が一番いいときって、それはいったいなんなのよ、という感じ。
相手にしてみれば、社交辞令のつもりもあったのかもしれませんが、なんだか、げっそりしてしまうせりふです。今でもそれはおんなじ。新婚?そう、今が一番いいときやねぇ、なんて。私にはまだまだこれから「いいとき」がたくさんあると信じてるのに!
まぁ、「大人」ってそんな余計なお節介をいってみたりします。経験に照らして、それはそれなりの心情があるんでしょうけれども。
思えば高度な情報化社会というのも、お節介な大人と同じではないですか。情報を収集すれば、何をするとどうなるか、ある程度予測可能です。模試の偏差値で受験する学校を決めるように。他人の成功や失敗を分析すれば、今の自分が社会のどの位置にいるのか、はっきりわかった気になる。人生すごろくの全体像が見えたような気になる。自分がこのさき、どうすればどうなるか、もうわかったような気になる。で、夢を見る芽がだんだんに摘み取られていく。
子供が大人にシンパシー感じないのは、きっと面白くなさそうだからです。
この情報化時代に大人たちの生活をつぶさに見ていても、なんだか幸せじゃなさそうだから。
だから、あんなの馬鹿みたいだと軽視する。でも、いつか自分たちもそうなるんだろうとは思っている。
どうも、いまや大人とは、「なりたくもないのに、なってしまうもの」という位置づけなんです。
これでいいのかなぁと最近思うんですね。
一見、無関心に放置して遊ばせているようで、そのくせ夢を見る芽だけは摘み取っている。子供にできることは、ほとんど夢を見ることだけといっても過言ではないのに、なんという罪つくりなことでしょうか。

私は今、たんに若々しい大人ではなく「かっこいいほんとの大人」ってどんなのだろう、これと思う人がどこかにいたらなぁ、あんなふうになりたい、そう思えるお手本がほしいなぁ、と思っています。格好だけ若く見える、ライフスタイルだけ若者ぶる、そんなことなら誰だってできるし、つまらない。若さに媚びて、今が一番いいとき、なんていいたくないし、いわれたくもない。
年上の人には、
「四十代、五十代になると、人生ますます面白いよ。まだまだこれからだね」
心からそういって若輩者を羨ましがらせてほしいし、ああなりたいなぁと思いたい。また、私自身も、いつかそんなふうに不敵かつ余裕の笑みを浮かべたいものだと思いますね。
大人が不幸な社会は、子供にも不幸です。
大人が、心底生きてて楽しいと思わないのなら、やがて大人になっていかなきゃいけない子供に、どんな夢が見られるでしょうか。


脳死移植

過熱報道が問題になった脳死移植ですが、ドナーになる意志を生前から示しておくためのカードがあるというのも話題になりました。
脳死って、いつ誰がそうなっても不思議ではないんですね。交通事故やなんかで、自分も、家族も、いつ脳死になるかわからない、そういう可能性は誰にもあるわけです。そこで、私は生きているうちから家族の意見を聞いておこうと思いました。すると、みんなこの件に関しては案外とセンシティヴなんだなぁということが判明。
私自身は、自分が死んだ後のことなんて、どうせわかんないからどうでもいいし、役に立つなら使ってくれてもいいや、と思っていたけれど、うちの両親と弟は、ドナーになるのなんか「絶対にイヤ」派。そういうのは生や死の神聖さに対する冒涜だととらえているみたい。うちの父親なんか、自分の目の黒いうちは、家族が脳死しても臓器摘出なんか絶対にさせたくない、といっていたので、いま私自身が脳死しても、ドナーになることはなさそうです。あれって遺族の同意が必要なんですよね?

まぁ、確かに自分がドナーになるのは(もう確実に死んでるんなら)どっちでもいいけれど、自分の肉親のこととなると、また別の感情がありますね。脳波がなくなったといっても、まだ暖かい身体、息をしてして、ちょっと見には眠っているようにも思える肉親の臓器を、その時点で取り出してもいいとは言い難い気持ちがするんじゃないでしょうか。ましてや、もしもそれが突然に起こった事態なら、なおさらでしょう。
長患いのすえ、もう駄目か、という場合なら、あらかじめその人の死を考える暇もあるかもしれません。でも、昨日までぴんぴんしていた兄弟や夫や妻や子供が、今日、予期せぬ事故にあったとしたら。身内が死んだことさえも、すぐには受け入れられないというのが一般的ではないかしら?自分の愛する人が、もう死んでしまったなどと、やっぱり最後の最後まで信じたくないし、信じられないと思います。その身体が息をしなくなり、冷たくなって、見知らぬモノのように変化していくまで、遺族は感情的に納得できないんじゃないでしょうか。そんな混乱の極みにあるとき、もし医者や誰かから脳死移植のことなんかほのめかされでもしたら、私などもう怒り狂ってしまい、襟首つかんで殴りかかってしまうかもしれません(-_-;)
う〜ん・・・やっぱり、今回の報道合戦って、そう考えるとずいぶん非道だったような気がします。だって、なんだか、まだ死が確定しないドナーの人が脳死するのを、今か今かと待っていたような、そんな感じでしたもの。さぁ、いよいよ日本でも脳死移植ですよって・・・・そういうの、そこで死を決定される人や、その家族にとっては、いったいどんな気もちがしたでしょう。そのことを考えて、こんなふうになるならドナーにはなりたくないと思った人も、大勢いたんではないかしら?

人間ってエゴイストです。
自分の愛する人の臓器は、まだぬくもりの残るその身体から摘出させるのは嫌だ、今はそう思いながら、もし逆に、その人が重い病気で余命いくばくもなくなり、残る手段は移植しかない、そうなったらどうでしょう。どんなことをしても、生きていて欲しいと思うんじゃないでしょうか。
「人間って」などと安易に一般化できないとしたら、「私って」エゴイストです。
私なら、きっとそう思うでしょう。誰かの死とひきかえにしても、自分の愛する人がたとえ何ヶ月でも何日でも生き延びて欲しい、そう強く思うでしょう。そうなったら、誰かドナーがでないかなぁと、一日千秋の思いで待ちわびることでしょう。ドナーがでる、ということは、人が死ぬことなのに・・・
でも、きっと、そう思うでしょう。愛する親が、きょうだいが、夫が、もし死を待つだけの状態になったとしたら、きっとそう思うに違いありません。それは、やっぱりエゴなのでしょうか・・・



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