平常点のカラクリ

またまた平常点の話。生徒と教師の攻防のありさまです。

私自身は、授業態度のようなものは主観によってずいぶん左右されると思っているので、小テストや提出物などを材料にして点数を出すんですが、生徒たちは、やはり授業態度がかなり関係すると思っている様子です。まあ、得点の低い生徒がひがんでそう思い込んでいるのかもしれませんが、教科や先生によっては多少そういうこともあるんでしょう。それで、最終的に成績を出すのに平常点の割合が低ければ、どうということはないと思いますが、これはかなり高いわけです。
百点満点のうち、三十点がそうです。あと七十点は、定期テストを七掛けして足す。で、欠点ボーダーは三十五ですから、欠点のことだけを考えると、極端な話、平常点さえ満点とっていれば定期テストでは十点しかとれなくてもいいという勘定なんですね。
実際には、定期テストの点数がそんなに低い生徒は、やっぱり小テストの結果や提出物なども不出来ですから、そんな極端なケースはないにしても、平常点というのはやはり影響が大きい。

一方、定期テストですが、テストというのは作り方によって難しくも易しくもできます。それによって平均点はどのくらいにでもなるわけです。けれども、けっこう平均点を低く抑えてある。ちょっと見た感じ、四、五十点というところですか。これではやっぱりどう考えても、平常点のウェイトは大きくなりますね。なんでこんなに平常点にウェイトをおくのか。そもそも小テストにせよ、その他の課題にせよ、簡単な誰にでもできることで、それをもってして、授業の理解度が測れるようなしろものではありません。
私は、不慮の事態で定期テストが受けられなかったり、何らかの事情で日頃の実力が発揮できなかった、または真面目にやっているのに点数がとれない、という生徒に対する温情なのだと解釈していましたが、どうもそれだけではないらしい。生徒の授業態度に及ぼす影響というのもあるんじゃないかと思えてきました。
要するに、日頃の努力や真面目さを測る平常点というものがあって、そこにウェイトがおかれれば、生徒は授業をサボりにくくなるし、対教師暴言などの問題行動も、ある程度は抑制されるという効果があるわけです。授業を真面目に受けさせる、授業を円滑に進めるのに、ある程度効果があるんですね。
なるほど。定期テストの平均点を低くしてあるのは、そういう意図もあるのか、と勘繰りたくなります。

どうなんでしょうねぇ、もうこのあたりになってくると、何がいいのか悪いのか。
確かに、まともに授業が受けられない生徒、私語や立ち歩きで真面目にやっている生徒の妨害をしている生徒というのはいます。だって、彼らにしてみれば、やっていることがわからないし、面白くないし、でも、じっと我慢していられるだけの忍耐心みたいなのも育っていないし、仕方ないといえば仕方ないんです。
ほおっておけば、全体の授業が進められなくなる。でも、そんなふうなやり方で絞めつけている現状は、こっちとしても釈然としない気分にさせられますね。まるで、囚人を見張っている看守のようではないですか。
騒いでばかりいる生徒、そういう授業妨害に迷惑を被っている生徒、どっちも不幸です。そもそも一緒に勉強させていること自体が悪いんじゃないかと、私などやっぱり思ってしまう。

問題行動を起こしがちな生徒、とくに勉強が遅れた生徒だって、自分にもできそうな課題であれば、進んでやろうとする場合も多いです。認められたい欲求は、実は、並み以上に強かったりする(飽きるのも早いですが)。日頃、無関心を装ってはいても、ちょっとしたことで認められるとやっぱり嬉しいわけです。
私自身も、国語の先生にほめられるのは、なかば当たり前だと思っていましたが、体育や数学の先生に一言でもほめられると、そのささいな言葉がとても嬉しかったのを覚えています。苦手科目だったからですね。コンプレックスがあったからです。どうしても、その科目ができないと、先生まで自分のことを「できない奴」だと思っているんじゃないかと、ひがんでしまうものなんです。実際には、先生は何百人の生徒と接していて、ひとりの生徒のことなど、そんなに個人的にどうこう考えている暇なんかありません。それなのに、生徒にしてみれば、その科目の先生は、その人ひとりですから。もしも一科目や二科目ではなく、全体に勉強ができなければ、その生徒が学校へ来て授業をうけている気もちって、いったいどんなものでしょう。私だって、体育のある曜日はちょっと憂うつでした。数学の授業は当てられたくなかった。ほとんどぜんぶがそんな憂うつ科目だとしたら、そんな生徒の学校生活って、どんなものなんでしょう。

よく、そういう生徒のことを、世の中をナメているとか、何もまともに考えていないなどと非難している先生もいます。たしかにそうです。幼稚だし、刹那的で、後先のことが考えられません。でも、いま、ひとりひとりの生徒を思い浮かべるとき、世の中(大人たち)をナメているというよりは、むしろ、精神的なもろさ、精一杯の虚勢みたいなもののほうを強く感じさせる生徒がたくさんいるように思います。彼らが集団になると、より悪い面が増幅され、そういう繊細さもあまり見えなくなりますが。
彼らは非難されることに非常に敏感です。あまりほめられたことがなく、いつも叱られてばかり、それはもちろん自分の成績や態度が悪いからなんですが、基本的に「勉強が苦手でわからないから騒ぐ」→「叱られると、誰も自分を尊重してくれないとひがむ」→「ふてくされてますます勉強しなくなる」→「また叱られる」・・・という悪循環に陥っている。これはもう根深いものがあって、すぐにどうこう出来る問題ではなく、それだけに、私にはそのどうしようもなさが救われないものに感じられます。
当てられても先生の質問がわからない、答案用紙に何も書けない、それでもクラスメイトの手前、馬鹿にされたくはない、馬鹿だと思われたくない、だから、授業を真面目に受けない。なぜって、真面目にやっていてもわからなかったら、騒いでいてわからないよりも、もっと惨めです。それでは、ほんとうに自分の頭が悪い、ということになってしまう。妙に突っ張るタイプにはこんな羞恥心があって、勉強のできないことは恥ずかしいことだと思っている。周囲や自分に対して、「真面目にやっていないから、やる気がないから、だからできないんだ(やればできるんだけど)」、というエクスキューズやポーズをつくるためにも、授業に身を入れないでいることが必要なわけです。
そんな彼らを無理にでも「真面目にさせること」は、ガラスのような自尊心を保つための逃げ道を断つことを意味しますから、これには頑強に抵抗します。無理に真面目にしろと言わなければ、むしろ安心して勉強をさぼり、その結果、全体の授業を妨害するような抵抗はやめることが多い。騒いで立ち歩くことから、ひとりでマンガを読む、ヘッドホンで音楽を聴く、居眠りするなどの行動に変わる。そうやって退屈を紛わせて、彼らは彼らなりに、先生や真面目なクラスメイトの邪魔をしないように、気を使って(?)いるわけです。

十点満点の小テストをするとします。ほんとうに基礎的な簡単な問題を出すと、勉強が苦手な生徒にでも満点に近い点がとれます。すると、その生徒は非常に喜びます。実際には、みんなが満点をとっていたとしても、自分がいい点をとれたということで、じゅうぶんに嬉しいわけです。その喜びようは、ちょっといじらしいぐらいです。でも、難しくして、点がとれなくなると、もうやぁめた、と投げてしまう。教師はそこから先へ進めようと叱咤激励しますが、こんなふうになるのは子供たちだけではないですよね。人には向き不向きがある。苦手なこと、自分にとうてい勝ち目がないことだと思えば、人はたいてい努力することを諦めるものではないですか。できることはどんどんやる、でも、できないことはなんとかやらないですます。私は、やらなくても生きていけるなら、それはやらなくてもいいんじゃないかと思います。
はっきりいって英語なんて、生きていくのにそんなに重要な事柄とは思えません。学校の先生だって議員さんだって、英語の喋れない人ばかりです。そのうえ、工業高校は進学校ではありません。英語のプロになるわけでなく、大学入試も受けないのであれば、そんなに細かい文法やイディオムなんか覚えて、一体なんになるんでしょう。そんなの、やらないでもすませられることではないでしょうか。海外旅行をたとえしたところで、そんなものめったに披露する機会がありません。実生活にも関係のない小難しいことばかり教えて、それをテストに出して、点の取れない生徒に「自分はできないんだ」という気もちばかり持たせるのではなく、易しいことから始めて、最低限なんとなく「わかった気分」にでもさせてやる、そういう「サービス業的な教育」が、ここでこそあってもいいと思うんですよね。
実人生において、英語ができないなんてみみっちいことよりも、自分の頭が悪いんじゃないか、自分は無能なんじゃないか、などというコンプレックスを抱かせるほうが、ずっと問題ではないでしょうか。

授業の内容がなんとなくでもわかったら、平常点で縛りつけなくても、問題行動はずっと少なくなるはずなんです。他人に認められたい、というのが人間の基本的欲求として誰にでもあると思うからです。


最近読んだ二、三の本から

結婚したので、なんか生活が変わったなぁと思います。
洗濯は今までの倍以上しなきゃいけないし、部屋は以前の倍以上のスピードで散らかるので少し気を許すとひどいありさま。買い物に行けば、売り場を回りながら夕食は何にしようかと考える。ちなみに、今晩の献立は、魚の煮付け、さつま芋の味噌汁、納豆、ホウレンソウの玉子とじ、フルーツサラダ(予定)。当然のことですが、独身でいるよりも、ぼんやり過ごしている暇というものが少なくなりました。だらだらと本を読む時間というのがない。とくに、今はパートタイムの講師やっているので忙しいんです。まぁ、これはもうすぐ終わりになりますけど。そしたらまたゆとりができるはず。

こういう主婦生活しているせいか、本屋でふと手が伸びてぱらぱらと立ち読みしたのが、今流行の「節約(倹約だったかも)のすすめ」。上質なシンプルライフ目指して、お金を節約するアイディアが書いてある本です。実に細々としたことが書き連ねてあって、著者自身が、これはよかったとか、あれはこういう点で失敗だった、などと試行錯誤しながらやっている。でも、なんといっても、実行のポイントは、シンプルな暮らし、というのに価値を見出すことでしょうか。こういうの、精神的バックボーンがないと、なかなかできないですよ。あと、時間的ゆとり。専業主婦でないと、絶対にできない。パスタのゆで汁でお皿が洗えます、とか、玉子の殻でコップが磨けますったってねぇ、アナタ。ひとつひとつはちょっとしたことでも、端からやっていくと、非常に時間と人力がかかることになる。うちだったら、コップを漂白剤につけといて、同時にお皿は食器洗い機で洗って乾燥まで。地球にやさしくはないけれど、時間はかからないしラク。人件費が一番高いこの国で、この手のシンプルライフというのは、実はすごく贅沢なわけです。
ま、できることはやってみてもいいと思いたち、せめて持っている服のリストを作って管理することぐらいはしようかなと、同居人に言ってみました。
「なぁ、持ってる洋服のリストつくるってどう思う?」
「なんでまた?まぁ、ええかも知らんな。あること忘れてついつい似たようなの買ってしまったりするし」
「そう。だから、それ見たらわかるやん、何が必要か、とか」
「うん。でも・・・(疑わしそうに)あんたがそれすんの?」
「リスト作り?うん。しようかなと」
「(きっぱり)やめとき」
「なんでよ?」
「そんなんでけへんやろ、あんたには。あのタンスのなかのん全部やで(~_~) めんどいで〜」
「・・・・・(にわかに面倒くさくなってくる)それもそうやなぁ・・・」
「なっ。やめときやめとき。そんなんしてたら、またあんた機嫌悪ぅなるに決まってんねんから。きーって怒り出すやろ?ほんで、オリャアアって物投げたりしだすし(^o^)」
「・・・・・(-_-;)」
・・・やっぱ、精神的バックボーンが大切ですよ。思うに。

そういえばアレルギー持ちの人が増えるなかで、自然回帰がブームになってますが、どうなんでしょう。たとえば自然食に慣れると、人工添加物の入ったものなど食べると身体の調子がおかしくなったりするといいます。それを、身体の機能が良くなって、人体に有害なものに敏感になった証である、と得意げに言う向きもありますが、そうすると、自分が不快な目に会わないためには、自然食以外は口にできないことになるわけで、まったくもって不便なことです。人と会っても、ちょっと外食、というわけにはいかなくなる。それに、怪しい人工物は食べ物以外にも大気や海などにあふれているし、毒喰わば皿まで、ではないですが、これだけ化学物質が氾濫しているのだから、いっそ、それに慣れるしかないのでは?
ひょっとして、人類は、自分で自分自身を進化させるきっかけをつくっているのではないかと思わされます。
このあたり、専門家の意見を聞きたいものです。化学物質を排除しようとして、果たしてやりおおせられるものなのか。自然食や、環境にやさしいと銘打つものを利用して、果たしてどれほどの「効果」が期待できるものなのか。その労力に見合うだけのものがあるのでしょうか。

ほとんど読みおえた古典SFの「地球最後の日(ワイリー&バーマー)」は、地球に天体が衝突して爆発してしまう物語。未曾有の天変地異を生き延び、人類の選ばれた一握りは、それでもかろうじてロケットで脱出する。あの、「ディープインパクト」の下敷きとなったらしい小説です。映画よりは中身があるだろうと思って、読んでみました。
これは、選民思想がけっこう鼻につきます。手放しのアメリカ礼賛に階級意識まるだし、1933年の発表当時ならいざ知らず、今の時代ではちょっとどうかな、という感じ。でも、たぶんこの手の映画よりは面白いんじゃないでしょうか。こんな超巨大なテーマ、そもそも二、三時間の映画ではなかなか描き切れないと思いますね。そうなれば、活字のほうがいい。

うちの同居人から借りて読んだ「成功するサイエンティスト(カール・J・シンダーマン)」は、面白い本でした。
要は、科学者ウォッチングです。こういう科学者もいれば、ああいうのも・・・といったたぐいの話。科学者や、科学者に関心がある人、はたまた科学者が自分の周囲にいる人、誰でも楽しめる内輪話的な本です。
まあ、科学者といっても人間なわけです。人がつくる世界は、つねにドロドロしているもんなんですね。みんなが優秀だとは限らないし、人間的に良い人であるとは、さらさら限らない。そこにはいろんな葛藤や人間模様、過酷な競争のプレッシャーがある。これを読めば、科学及び科学者に過度に期待し過ぎることなく、けれどもその本来の理想や細々とした個々の業績の積み重ねには、多大な意義を認める気もちにさせられます。


時の流れ

このまえ、梅田の地下街を歩いていて、真珠のイヤリングを片方なくしてしまいました。家に帰って手を洗っているとき、鏡の前ではじめて気づいたんです。

真珠といっても安物でした。もう十年もまえですが、百貨店で赤札特価のものを買ったんです。どんな洋服にも合わせやすいし、耳に軽くてつけやすいし、流行を問わないので、普段けっこう愛用してました。
もうあれから十年もの時間がたったことを考えれば、もっと上等なものを買ってもいい頃だし、金銭的にはさほどの損失ではないと思ったんですが、それとはまた別に、なんだか寂しいような気もちが。いろんなシーンで、ほんとうによくつけていたので、それなりの愛着があったんですね。でも、それまで、そんなに愛着を感じていたわけではなくて、むしろ「無難なもの」として「あると重宝だ」ぐらいに思っていたのに、いざなくなってしまうと、自分が愛着を感じていたことがわかった、という具合です。そのイヤリングを買ったときの状況などが思い出されて、少しセンチメンタルになってしまったのかもしれません。
もともとモノに感情移入するタイプではないので、これは、きっと今の状況も一因なのだと思います。誰にでも、自分の人生が音を立てて変わっていく瞬間がわかるときがあるものですが、まさに、私もいま、そういうふうに感じているからです。

人生、やっぱり何があるかわかりませんね。いったい誰に予測できたでしょう、私が物理学者と結婚するなどと?運命とは、常に、人のウラをかくのが好きなものだと改めて思います。
結婚はそのうちしようと思っていましたし、誰も相手が見つからないんじゃないか、などと深刻に考えていたわけではなかったけれど、それでも私にしてみれば意外な展開です。相手として、普通の会社員しか想像していなかったからです。まあ、別に職業はなんでもいいんでしょうが、やっぱり見ていると、一般的な勤め人とはずいぶん違ったところがあって、オドロキの連続だったりするわけです。
私の人生は私の人生だといっても、誰かと結婚すれば、ある程度は運命共同体だし、始終一緒にいる相手からは、強く影響を受けるものですね。で、いまのところ、私の中では(大袈裟にいえば)価値観の崩壊と再生が常に起こっている状況です。

考えてみるほどに、時の流れは不思議ではありませんか。自分の人生の変遷、自分のこころの変化、そういうものをずっと順番にたどっていくと、言葉では言い尽くせない気持ちにさせられます。
「万物は変化する」
父の座右の銘なんですが、このごろ、その言葉に重みを感じるようになりました。
あんなに大切だと思ったこと、この人がいなければ、これがなかったら、自分はとうてい幸せにはなれないとさえ思っていた、その時は疑うことすらできなかったその執着や信念は、いまはどうなっているでしょう。
心の底から笑い、かなえられない望みに泣き、虚しさに心絞めつけられ、戸惑いに揺れた、これまで生きた日々、あの瞬間たちは、遠く過ぎ去ってしまえば、もう薄く紗のかかった輝きに過ぎません。そして、こうしているいまも、一刻一刻が思い出の領域に織り込まれ続けているわけです。そして、いずれ死ぬときがきて、生の完成とともに、一切が無になるとしたら。
これを、虚しいと思いますか?

私は虚しいとは思わなくなりました。
ずっと以前の私は漠然とですが、霊魂というものがあって、自分のアイデンティティを保った何かが霊界でも存続して欲しい、そうでなければ何のために人は生きているのか、虚しいではないか、というような気もちがありました。現実的な母が、「死んだら無になる」などと言っていると、何でこの人はこんなこと本気で思っていて、生きるのが虚しくならないんだろうと訝りました。
でも、今はそれはどっちでもいいと思います。
霊魂が、あったとしても、なかったとしても、かまわない。
神が、いたとしても、いなかったとしても、かまわない。
私は、恩寵があることも信じていましたが、それも、わからなくなりました。自分が「こうすべきだ」と信ずることをしたからといって、超自然的存在による恩寵があるとかないとか、そういう次元の問題ではないと思うようになりました。

やはり、未来はわからないものだから、誰でも確証とか契約みたいなのが欲しいんですね。どの宗教でも結局似たり寄ったりの手段を用いて、つまり、そのへんの心理を突いて布教に成功するわけです。
「〜すれば、・・・・してもらえる」式。「この戒律を守れば、最後の日には救済してもらえる」とか。
でも、それは、いつか破綻するんです。世の中そんなふうにできてないからですね。常に戒律を守り、良かれと思って行動しても、暗澹たる結果に終わることもあるでしょう。
どうして?と怒りが込み上げてきます。こんなの約束と違うじゃないかって。勧善懲悪でハッピーエンドの昔話ばかり読み過ぎると、そういう心境になります。
でも、そもそも恩寵を期待すること自体が、あさましいことではないか。それは「契約」ではありえないのではないかと思うんですね。
基本的には、生きる上で自分が心の底から、そうしよう、そうしなければ、ということだけをすればいいんじゃないかと思っています。そこに何らかの自己犠牲がともなったとしても、自分が望んですることに、恩寵など期待するのは筋違いなんです。失敗しても、自分が選んだことの結果なら、納得しなければしかたがない。
神のために、死後の存続のために生きてるんじゃないんです。
生きているこの瞬間の満足と幸福感を積み重ねることが、何よりも大切なんです。この生、この自分を生ききることが、どんなことよりも大切なんです。

時が流れ、いつかこういう考えも、変更を余儀なくされることになるやもしれません。
こんなに大切だと思うことや人、今この時は疑うことすらできない執着や信念も、いつかぼんやり紗のかかった輝きの一点に過ぎなくなるのでしょうか。そんなことを考えられるようになることが、大人になるということかもしれないと思います。
それでも、人は誰かに、何かに執着するし、ある事柄や考えを信じます。無常で、かつ優しい時の流れを思いながら、それでも繰り返し、執着に苦しんだり、固く信じたりします。そうしなければ生きられないから、生きている気がしないから、でしょうか。そうしていなければ、過ぎ去る時がいつか限りなくいとおしい輝きの点となって、凝縮されることすらないのだと、わかっているからでしょうか。


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