おかたづけ考

おかたづけの話です。
私、洗濯は好きだけど、掃除ってキライなんです。だいたい、掃除の好きな人って、誰かいます?もちろん、掃除の済んだ清潔な部屋は、私も好きですけど。
洗濯は洗濯機がやってくれて、あとは干すだけですみます。でも、部屋の掃除って、ぞうきんがけにしても、掃除機をかけるにしても、まだまだ原始的にせっせと身体を動かさなきゃいけない。私はそんなに力強いほうではないので、やったあと疲れます。思うに、こういうのは、男の人がやれば効率的なんじゃないですか?なんといっても、生物学的にいえば、男性は女性の二倍の筋肉があるそうですから。同じ力仕事をしても、女性と男性では、疲れ方が違ってくるわけです。
一例ですが、私だと自転車のハンドル部分を片手でつかんで、そのまま推して道を歩くなどという芸当は長くできません。両手を使わないと、すぐによろよろしてしまいます。ところが、たいていの男の人だと、わりと細身の人でも、それくらいは何でもないような顔をしています。そして、こういう筋肉は、驚くべきことですが、健康な男性ならばたいていの人が、とりたてて苦労しなくても、成長とともに発達させるらしいのです。
いまや都会暮らしのオフィスワークでは、筋肉なんて、あったところで使い道がないですよね。仕事率のいい筋肉を、そのまま年とともにたるませていくのは、非常にもったいのない話です。一部の家事だけでなく、子育てや老人介護なども、ある程度ハードな肉体労働を伴う仕事。そういうことにこそ、男性が関わると、ずっと効率がいいのではないかと思います。で、世の男性にひとこと(^^)
あなたの筋肉を飾り物にせず、もっと役立てませんか?

話を戻しましょう。
まあ、ホコリひとつ落ちていないような、ぴかぴかの部屋は落ち着かないにしても、あんまり汚らしく雑然としているのも気が滅入ってきます。仕方なく掃除するんですが、掃除のしやすい部屋と、しにくい部屋というのはありますね。モノが少なくて、全体にスキっと片付いていると、はたきや掃除機もかけやすいんです。だから、不必要にごちゃごちゃとモノをおかないほうがいい。インテリアとして、花瓶に花を飾ったり、ちょっとした小物をディスプレイしたり、壁に絵をかけたりするのはOK、でも、こまごまとした生活用品や、本、CD、化粧品などが散らかっているのは、ある限界が過ぎると自分でもうっとおしくなりますね。どうしたらすっきりとかたづけられるのか。ここらあたりのことは、どうもモノとの関わり方の問題なんじゃないかと考えてみました。

すっきりかたづけるには、当たり前のことだけど、まず収納場所を確保しなきゃならない。
そのために、今あるモノ、そして、これから買おうと思っているモノの点検をする。
たとえば、欲しいけれどほんとにたまーにしか着ないだろう洋服や、ちょっと高価なアクセサリー。そもそも、ほんとにたまにしか着る機会のないパーティドレスなど、維持管理のいらないレンタルのほうが気楽なんじゃないか。それに合わせるアクセサリーもそう。あと、一年に何回来るかわからない客のための、お客様用ティーカップというたぐい。そんなのほんとに必要?
流行遅れでもはや着なくなった服や、旅行先で衝動買いしたおみやげ、キレイなんだけど何に使っていいかわからない空き箱なんかは、ひょっとしたら出番がくるかもと思ってとりあえずとっているけれど、ほんとにそのときが来る?

何かの役に立つというのは問題ではなくて、そのモノを所有すること自体が嬉しいという場合を除き、やっぱり不要なモノってありますよね。あきらかにいらなくなったと思えるモノは捨てていけばいいけれど、なんとなくもったいないモノはどうしましょう。けっこう多いと思うんですよ。そういうモノって。買い物すると、あとからあとからそういうモノが、嫌でも増えてしまうでしょう?気分的に捨てにくいモノたち・・・
洋服なんか、たいてい擦り切れるまで着ませんよね。でも、いつのまにか野暮ったくなってしまう。その点、流行を追わないコンサバなものは、長く着られるという意味において優れてます。そういうものを選んで、あまりモノを買わないというのもひとつの選択ですが。
でもでも、やっぱり、買い物の楽しみも放棄したくない・・・すっきりとかたづけもしたいんだけど、たまっていくモノが処分できない・・・
こんなふうに、悩んだことありません?

ま、お金に余裕がある範囲で、それぞれ好きなモノを好きに買えばいいんだとは思います。
でも、何か買えば何か捨てないと、空間には限りがあるんだから、すっきりかたづけることは不可能。日常品で二、三年も使っていないモノは、不要とみなして処分するぐらいの気もちがなければ駄目なんじゃないか。けっきょく、この日本の都会で、いちばん高いものって、家という空間ですから。いつ使うかわからないモノばかり詰め込んで、結果的にごちゃごちゃと狭くなった部屋に住んでいるほうが、じつはもったいないんじゃないかと思うんです。
あるときそう思って以来、できるだけリストラするようにしてますけど、まだ着られる服、まだ使えるモノを捨てるのって、やっぱり多少の罪悪感が。値の張るもの、ブランドものとかじゃなくても、もっと気軽にリサイクル、寄付ということができたらいいんですが。

ああそうそう、彼や彼女、友達というのも、もしかしたらそういうふうに考えてみたほうがいいのかも。
愛着ってほどのものもないんだけど、別れるのはなんとなくもったいないし一人になるのも嫌だし。それだけで、つきあってる。それもわかるけど、もっともったいないのは、自分の人生、この二度と戻らない時間かもしれませんよね?


まりねこ、センセーになる。

突然ですが、私、とある公立の工業高校で、臨時の非常勤講師をすることになりました。
事情があって一ヶ月ほど来られなくなった先生の代わりに、一年生と二年生のいくつかのクラスで英語を教えるわけです。すでに二日ほど授業をしましたが、たいへん疲れました(~_~;)

以前、普通科の高校では教えた経験があるのですが、工業高校となると足を踏み入れたこともない。最近は女の子もちらほら、数えるほどにはいるといっても、やはり男子生徒が95%以上を占めていますから、まあ、一見してぜんぜん感じが違ってきます。私自身はどんな雰囲気なのかと、ちょっと不安でしたが、男の子ばかりだと、生徒自身はリラックスしているというか、異性の目を意識することがないので、けっこうのびのびとやりたいようにやっている、という感じに見えますね。
それは先生がたも同じです。大半が男の先生で、実習の作業服なんか着ている方もいたりと、はじめは見慣れない光景ですが、どなたも親切にしてくださるので、ありがたいです。ま、たいてい理数系男は、ボクトツだったり奇矯だったりするけれど、そのココロは少年のように純真で、人にも親切なのです(^^)

いま高校一年というと、あの神戸のサカキバラ少年と同じ年。私は正直、このごろの子って、ナイフをもっていたり、先生を刺し殺したりと、物騒な報道が続いているので、どんなものかなぁと心配していたんですね。キンキンの金髪に染めた目つきの悪い男子生徒ばかりだったらどうしよう、コワイなぁ、などと思ってました(~_~;)
でも、いざ行ってみると、そうですねぇ、そういうコワイような感じを与える生徒は、私の知る限りいませんね。確かに、ちょっと髪を茶色く染めている生徒もいるし、授業中にケイタイが鳴ったり、突然のようにすごい声で、「ウリャァァ」とか、いてまうぞ」などと吠える生徒はいます(-_-;) が、ケイタイでそのまま喋り出したりしませんし、人を驚かす奇声は、たいていの場合、生徒同士のじゃれあいだったり、さして何の意味もない掛け声(?)のようです。
授業中、いくら注意しても私語は止まりませんし、プリントを配れば次の時間までに紛失しているし、一部の生徒は何につけてもキチンとしたことができずに幼稚な感じがしますが、そんなのはきょうび、大学生でも同じらしい。授業のはじめに、まず、「テキストの何ページをあけなさい」といわないと何もしないで喋り続けているし、質問して当ててもキョトンとしていて、聞くと、教科書忘れました、とヘーゼンとしてる。教えるほうは、やれやれとため息も出ますが、かく言う私自身だって学生のころのことを思い出せば、人のこと言えた義理じゃなかったですからねぇ(~_~;)

私の場合、大学入試が終わった時点で、「もうこれで勉強しなくてもいい」と気楽になってしまい、「大学に入ってまで、なんで勉強しなくちゃいけないのか、わからない」と真剣に思ってました。大学とは、就職までの執行猶予期間を過ごすところ、というような気分でしたねー(~_~;) ほんと、モラトリアムだったんです。
当然、授業中も私語はし放題、喋る相手や喋ることがなければ、きまって文庫本を読むか、ウォークマンで音楽を聴いてました。あるとき、大教室で言語学の時間だったか、隣に座った友達とべらべら喋っていて、キレてしまった教授に叱られたことがあります。その教授、いきなりマイクを片手に私たちを指して、「そこでオシャベリしている二人!前へ出てきなさい!」と、怒鳴ったんです。
気の小さい(?)私はびっくりしてしまい、えっどうしようどうしよう、と焦っていましたが、そのときの女友達ときたら、妙に根性のすわった子で、私をうながすと、先に立ってすたすたと教室の前のほうへ歩いていくではありませんか。「いったいどうなるの」と思いながら仕方なくついていくと、教授が厳しい声でこう言うんです。
「きみたちはいったい何をそんなに喋らなきゃならないんだ、ここで大きな声で言ってみなさい。えっ?どんなことを喋っていたんだ?」
そのとき喋っていたのは、友達の噂話など他愛もない事柄です。私はもう観念して、嵐が頭の上を通り過ぎるまで神妙にしていようと首うなだれて黙り込みました。が、女友達のほうは、からりと明るい声で、平然と言ってのけたんです。
「実は、お腹が空いたので、昼休みに学食で何を食べようかと相談していました」
私はあっけにとられて彼女を見たのですが、教授のほうは、なぜか笑い出してしまいました。ちょうど、お昼が近かったせいもあり、そうか、腹が減っては授業にも集中できないか、などと言いつつ、少し早めに切り上げてくれたんです。私は二十歳にして、はじめて、「機転をきかす」とはいかなるものか、ということを知った気がしました。この女友達が男だったら、きっと惚れてましたね(^^) この豪胆さ、このとっさの判断力と瞬発力、私にはないものだからです。

まあ、話を戻せば、高校生のときも、数学や化学、物理など、大学受験にない科目のときは、ひたすら授業に関係ないことばかりやってました。オシャベリしたり、マンガを読んだり、居眠りしたり、友達に手紙を書いてみたり・・・
こういう私ですから、立場が逆になって自分の授業中に生徒たちが「かつての自分のような振る舞い」をしていても、運命の因果応報なのかもしれません(~_~;)
それに、工業高校では大多数の生徒たちが卒業後は就職するので、英語に対する取り組み方も、普通科とは違ってきます。進学率の高い普通科高校では、どうしても、受験のための勉強というふうになってしまう。学校のカリキュラムがすでにそうなっている。テキスト以外に副教材なども使って、知識としての英語をびっちりと詰め込みます。でも、工業高校だと、そのあたり、まったく肩の力が抜けてますね。むしろ、就職のことを考えれば、専門の実習などでは気が抜けませんから、生徒にしてみれば英語なんてのは息抜きの科目になっているという感じです。私が化学の時間にはマンガを読んでいたのと似たような感覚なんでしょうね。


勉強嫌いの悲劇

頭のいい男の人が好きだといったら、なんとなく話がこじれてしまったことがあります。
よくよく聞いてみると、相手のほうは、頭がいい=高学歴という意味にとっている。そこから、「学歴で人を判断すべきでない」論を展開しているんですね。ここですれ違いが起こっている。
私のほうは、そもそも、「頭がいい」という言葉に、必ずしも高学歴を対応させていないんです。というのも、私の考えている「頭の良さ」とは、ある程度の知識を持ち、人生において自分なりにベストな方向を見定められる判断力とか、それを実現するにあたって必要な企画力と実行力、またそれらを周囲に的確に説明していけるだけの表現力、などを意味しているからです。こういう総合的な能力は、今の学校教育で養いきれるものではないし、受験で測りきれるものでもないので、学歴とはまた微妙に別次元の事柄ですよね。で、こういう能力を持っている人を、私は他に言い方がみつからないので、「頭がいい」と言い表しているわけです。
私としては、おおかたの人がそう考えているだろうと思っていたのに、そうでなくて、たんに「頭がいい=高学歴」だと定義している人のほうが多いと聞いて、ちょっとびっくりしてしまいました。
まあ、これはうちの両親の影響かもしれません。私が小学校高学年のときだったか、学校から帰って、「○○さんって、頭がいいよ」というと、母だったと思いますが、「へえ、頭がいいって、それは、ものを良く知っているってこと?それとも自分でいろいろ考えられること?」と聞いたんですね。知識を持っていることと、思考する能力とは別物である、という考えが、我が家にはあったんです。

考えてみれば、ものごころついたときから、私たちはいっせいに学校という社会にぽんと放り込まれて、以後、十年も十五年も、人によっては二十年ほども勉強するわけです。勉強の成果はテストの点数で測られる。得点ごとに輪切りにされて、高校、大学と進学するにつれ、近所の幼なじみとも、だんだんと人生のコースが違ってくる。それはまるで、同期入社した仲間が、年月とともに、課長になったり支店長になったりする様子に似ていなくもない。いや、まだ年端もいかない子供なのに、会社での出世競争など足元にも及ばぬ過酷な受験競争に、否応なく参加させられているわけです。

競争のない社会はありません。人間が複数いれば、必ず能力の差異がある。そこに優劣の考えが生まれ、競争心が生まれる。学校は社会の縮図だし、大人たちが競争社会で生きている以上、やがて大人となるべき子供に受験競争があっても、それはやむをえないことです。大人がストレスに苦しみながら生きているのに、子供だけが無菌状態で傷一つなく育つことなどありえません。
ただ、子供にとって不幸だと思うのは、会社なら辞められるけれど、義務教育は止められない、ということです。成人した人間が、会社を辞めてルンペン暮らしをしようと、たこ焼き屋を始めようと、誰も何とも言いませんが、勉強したくないからと、子供が義務教育を放棄することだけは、できないんですね。
それに加えて、同じクラスに、勉強の好きな子供も嫌いな子供もいっしょくたに寄せ集めて教える。どうしても中間層がターゲットになるので、勉強の好きな子供には退屈すぎるし、嫌いな子供にとってはちんぷんかんぷんで苦痛そのものです。
いまや、高校進学率はほとんど百パーセントに近いですから、高校までも義務教育化しています。本当は、もう勉強なんかしたくない、うんざりなんだけど、(親や自分の体面を保つために)義務として進学している、そういう生徒たちがかなりいるんです。「せめて高校ぐらいは」というやつですね。
でもって、結果的に、「やりたくもないことを無理に我慢してやっている」不幸な状態が長引いている。見ているこちらは、これではストレスもたまるだろうなと気の毒になります。

思うんですが、社会に出ても、たいていの仕事って、学歴と関係ありませんよね?
なにか小難しい知識のある無しが問われます?
ハンコ押したり、レジの計算したり、書類の整理したり、パソコンに数字打ち込んだり、そんなことぐらい、ちゃんと教えたら中学生でもできるんじゃないでしょうか。
大学でてなきゃできない仕事って、そんなにたくさんありますか?
生きるために必要でないなら、なんのための勉強なんだか、わからない・・・そう考える子供がいても、不思議ではないですね。もちろん、人生を豊かにする教養としての知識はあるにこしたことはない、けれども、それを身につける過程が競争になってしまったら、もう教養という優雅な響きからは遠くなってしまう、本来、知ることに伴う楽しさとか豊かさは見えなくなってしまう。殺伐とした優劣意識だけが残ってしまうこともあるでしょう。それでは本末転倒です。

私個人は、もっと多様な選択があってもいいんじゃないかと思います。勉強したい子供は教科書をどんどん読み進むことができ、そうでなければ最低必要限の読み書き計算をゆっくり学ぶこともできるというふうに。
子供にも、個性とか向き不向きがあると思います。たまに、「勉強のできない子供でも、ほんとは勉強したいんだ、わかるようになりたいと思っているんだ」などと、善意で信じている熱血先生がいますが、私は、そんなのほんとかなぁと疑ってしまいます。
人は平等に生まれてきません。子供だって、子供なりに、自分の個性とか向き不向き、力の限界を知ってると思うんですね。
たとえば、私は運動が苦手です。それなのに、テニス部に入っていたとしましょう。みんなと同じように練習しても、ぜんぜん上達しません。上手になっていく他のメンバーと比較して、劣等感ばかりがつのります。ある日、自分にはテニスの才能がないと思い、いっそテニス部をやめてクラシックギター部にでも転向しようと思います。顧問の先生にそのことを言いに行くと、先生は辞めさせてくれず、逆に、「こつこつ真面目に練習すれば上手くなる。もっとやる気を出して練習しろ」と言われてしまいます。そのうえ、みんなと一緒の練習以外に、ひとりで居残って壁打ちをやるようにと指導される。私は劣等感と、なんともいえない無力感に苛まれながら、居残って壁打ちをしなければなりません。ほんとはもうテニスなんかしたくないのに。もうテニス部になんかいたくないというのに・・・
この例は少し乱暴かも知れませんが、学校も勉強も嫌なのに、そこから出ていけない、出てもいくところがない、出ていくことを許されない、という子供の気持ちって、こんなものかなぁと想像しています。
学歴を積み上げること以外に、子供にできることってないのでしょうか?
勉強が嫌な子供には、どこにも行くところはないのでしょうか?
勉強以外の競争で、勝ち目のある戦いがしたいと思えば、どうしたらいいのでしょうか?


優等生の悲劇

マジョリティは常に強し、です。とくに日本ではそうですね。
そこからはずれると、上下左右どっちにはみ出しても、居心地の悪い思いを、時には我慢しなければならないはめになる。
巷に、「真面目で素直でお勉強ができる子供=優等生」というイメージがありますが、実際にこういうタイプ、クラスにひとりやふたりいますよね。大昔は羨望の的であった優等生という存在も、今ではイジメのターゲットになってしまうとか。可哀相なことです。

女優はトイレにも行かない、と思われていたのは何十年も昔の話。いまや清純派なんて成り立たないほど、スキャンダルは花盛り。おぼこな夢から醒めた現代人は、人間誰しも欠点を持つものだと自覚していますから、欠点がなさそうなもの、傷や歪みのなさそうなものを見ると、単純に「それが隠されているに違いない」と思うんですね。あまりつるりと完璧なものなんか、なんだか気もちが悪いわけです。
隠されているという考えは、それを暴いてみたいという挑戦欲を起こさせます。それで、傷や歪みを発見すると、あ、やっぱり、と安心したり、ほくそえんだりするわけです。あまりにもそれが行き過ぎた結果なのか、いまでは「優等生」というと、その実態は、「無批判に親や教師の意向を受け入れて行動する自立心のない良い子ぶりっこ」、というようなイメージまで出来上がっていたりする。で、まさにそのようなイメージでもって、イジメの対象になってしまうのだろうと思います。

最近では、イジメられている優等生のほうが悩んだあげく、突然のように深刻な問題を引き起こすケースも多くなっていると言われますね。学歴差別みたいなものは、無意識に、相手が傷つくはずはないと思っているので、こっちのほうが強烈だったりします。モラルとして、弱者には気遣いを見せなければならぬ、ということになっていても、試験の勝ち抜き組はすでに勝者であるがゆえに、気遣ってやらねばならない義理などない、という心理でしょうか。
たとえば、東大生が何かすると、しょーもないことでも必ず週刊誌ダネになります。扇情的なヌードになるとか、痴情殺人とか、それが下世話であるほど記事は盛り上がることになっている。「現代東大生気質」だの、「東大卒の女性は幸せだろうか」だの、尾ひれをつけもって、無用な分析、いらぬお節介を焼いて回ります。これも、まあ、遠まわしのイジメみたいなものかもしれませんよね。なんといっても、東大というのは、日本の最高学府の頂点に君臨しているわけです。そこにいるというだけで、国民から見れば超優等生、なんですね。イジメのターゲットたりえる資格はじゅうぶん、というわけです。
そういうのを逆手にとって、自分を印象づけていく、売り出していく、ということのできるようなタイプだといいんですが、もしも「どこの大学?」と聞かれて、思わず本当のことを言うのをためらってしまう、センシティヴな東大生がいたら、精神的な負担はどんなものだろうと思いますね。

東大生であるがために、一歩対応を誤ると、陰でとんでもないことを言われてしまうときもあります。
数年前、私は、ある東大生の男の子と、べつの友人と、三人で食事をしたことがありますが、この東大くん、割り勘で代金を支払うときにお金が少し足りなかったんですね。私と友人二人がそのぶんを立て替えて支払ったわけです。彼は、なんとなくヌボーっとした子で、ありがとうとも言わないで、そのままそれっきり。何日か後で顔を合わせる機会があっても、あのお金返しますともいわない。彼の頭の中では、「立替えってもらった=おごってもらった」ということらしい。まあ、小額だし、それならそれでいいけれど、ありがとうぐらい言ってもいいのになぁと思ってました。こんな話、普通なら、たんに「礼儀知らずな若者」ですみますよね。が、この話を別の人にしたところ、「それ、東大生やろ?そんなの、おごってもらって当たり前やと向こうは思ってるがな!」というわけです。
その人いわく、東大生だと周囲からちやほやされるし、学生のときから常に接待受ける側で、おごってもらって当たり前の感覚、むしろ自分がその食事にわざわざ同席してやってるんだという感覚なんじゃないか、というわけなんです。とすると、彼の気もちとしては、東大生と食事するのに代金を割り勘にした私たちのほうが世間知らずだ、ということになります。私はべつにその東大くんに何の下心もなく、完全に個人として貸し借りのない対等な立場だったので、そんなことは考えてもみませんでした。東大くんがどう思っていたのか知りませんが、常に人からおごってもらって、その見返りを期待される立場にある、もしくはそうなろうとしている人間というのは、どんなものでしょう。もう私の想像を絶しています。
東大くんが、ほんとうに「おごってもらって当たり前」感覚だったのなら同情の余地無しですが、たんにちょっとした礼儀知らずが、そんなふうに受け取られてしまう、そしてそのことを誰も注意してくれないのだったら、これはこれで気の毒な話です。

まあ、東大なら、自分が望んでいくわけで、それにともなう多少のリスクや不利益は、折り込み済みでなければならない、という言い方もできるでしょう。でも、普通の公立中学や高校などでの優等生イジメは、それと同列にできない深刻さをおびていることもあります。ほんとは勉強のできる子供が、仲間はずれになるの怖さに、わざわざでたらめの答案を書くようになる、というケースもあるとか。点取り虫とかガリ勉などと馬鹿にしたようにいうこともありますが、いい点数をとるには、やはり本能の赴くまま遊んでいては駄目で、それなりに努力とか克己心がいるわけです。たとえひがみやねたみがあったとしても、その努力までが正当に評価されないというのはおかしなことです。

そもそも優等生であることに、さほどメリットはないものです。成績がよく、先生のいいつけを素直にきいても、それでひいきしてもらえるというものではありません。そういうのは、私の見聞きした範囲で言えば、ちょっと考えられないですね。むしろ、手がかからないので、ほっておかれる、という場合が多いと思うんですよ。
どのクラス、どの学年にも、授業中に騒いだり学力の遅れがあって、普通以上に手のかかる生徒がいます。先生は、何か問題を抱えて、それを派手にアピールするような生徒に注意が向きますから、自分でちゃんとできる生徒はそのぶんほったらかしになります。礼儀正しく、真面目で成績もいい、何の問題もなく見える、こういう生徒ほど、じつは公教育では恩恵を受けてないともいえます。成績の良くない生徒向けにはいろいろ対策を考えますが、理解力に優れて授業が退屈な生徒のためには、なかなか対策も講じません。もうこんなことわかってるだろうなぁ、きっと退屈なんだろうなぁと思いつつ、「ごめん、あんたたち出来るんだから、自分で塾へでも行って勉強してね」、という感じでしょうか。
いままで、教室で出会ってきた生徒のことを考えると、私自身、いつでも、とくに手のかかった生徒のことばかり思い出します。彼らとのやりとりは、派手で、人間的で、笑いあり涙あり、いつまでも記憶に残る。いまどうしているんだろう、元気かな、などと懐かしく思います。でも、黒板に何か書いたあと机の間を見回っているとき、そっと控えめな小声で、「先生、3番の possession、sがひとつ抜けてます」なんて教えてくれた男の子、プリントを集めるとき、いつもきちっと端をそろえてくれた女の子は、誰だったか、もう覚えてないんですね。きっと、真面目に予習もやってきていて、テストの点数もそれなりに良かったような生徒だと思います。誰だったかなぁ・・・これを書いていて、そんなこと考えると、なんだか彼らに申し訳ないような気持ちになってきました。



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