お正月

みなさま、あけましておめでとうございます。
お正月は、いかがお過ごしでしょうか?
私は例年通り、家族で初詣に行きましたが、今年の人出はいつもより多かったようで、すごい人ごみでした。大晦日の11時半くらいから車に乗り、元旦の零時ぐらいに一番乗りで着くようにと出かけたのですが、同じことを考える人が群れをなしてやってきていて、零時を告げる銅鑼の音が鳴ると、いっせいに境内の賽銭箱の前まで詰めかけ、押し合いへし合いの大騒ぎでした。ほんとうに、情緒も何もあったもんじゃなく、ただ、恐ろしいばかりのヒステリックなラッシュでしたねー(-_-;)

昔、私のうんと小さい頃、お正月というと三が日の間、商店などはいっせいに休業、コンビニもなかったので、暮れからいろいろと買い置きをしたり、おせちをつくったりで、母など大忙しだったように思いますが、今はもうすっかり様変わりですね。元旦から飲食店やスーパー、百貨店など開いているし、なんといってもコンビニの氾濫で、何もそんなにせかせかと、モノを買い置きしたり食べ物を作り置きしなくてもすむようになりました。なんでも食べられて、便利になったのはいいけれど、そのぶん季節感もなくなってしまったのかもしれません・・・

でも、じつを言えば私、少々ひねくれた子供だったのか、お正月なんかちっとも好きではなかったんですよね〜(~_~;)
暮れから大掃除だとかって、寒いのになんだかんだと手伝わされるし、おせち料理なんて、せっかくつくってもらっても子供が食べておいしいモンでもないし、お年玉はもらえるけれど、私はあんまりお金やモノに対して欲がなかったので、それがそんなに有り難いとも思っていなかった。うっとうしいのは、年が変わるってただそれだけで、なんでそんなに騒ぐのかわからなかったんです。
テレビは朝から晩までくだらないお笑いとかバラエティやってるし、晴れ着の司会者が男女そろって出て来て、「みなさま、あけましておめでとうございまーす!」と賑やかに叫びだすと、なんとなく辟易してしまう気分。醒めてたというのか、「なにがそんなにめでたいのン?」という感じ。
何がめでたいのかわからない、そういうめでたさの演出に飽き飽きしたし、それを押し付けられるのもうんざりでした。「お正月だから」というそれだけで、何か粗相をすれば「お正月早々なんですか」と叱られるし。お客だの、親戚だのという集まりがあればあったで、良い子らしい振る舞いを期待されてるみたいで気が重い。そんなこんなで、クリスマスとちがって、お正月なんて早く過ぎ去って欲しかったですね。

まあ、こういうのって、気もちの問題なんですよね。年が変わったからって、何がどうなるもんでもないけれど、それを口実にして普段は疎遠にしている親戚が集まったり、自分なりの計画や目標を立ててみたりする。
私はいささか正直すぎ、それゆえに協調性に欠ける子供だったので、自分の思ったことしか言わなかったし、したいようにしかしたくなかった。外部の都合で何かを演じたりする気にはなれなかったわけです。そういう意味でいえば、楽しさを演じさせられる修学旅行なども苦手だったりしました。小学校のときだったか、修学旅行から帰って来て、両親に「ぜんぜん面白くなかった」とかいって、これまた叱られた覚えが。たぶん、両親にしてみれば、「すごく面白かったよ!」という、はつらつとした笑顔を期待していたんでしょうね〜(~_~;) そのときはなんで叱られたのか、さっぱりわからず、理不尽な親だと思ったけれど、いまでは理解できます。

なにごとも気もちの問題です。それがなんやねん、と言い出せば、なんだってそこで終わってしまいます。それではあんまり、ミもフタもなさすぎる。自分から外部の状況を楽しんでいこうとするフレキシビリティやらバイタリティも、時には必要ですよね。大人になったいま、やっぱりお正月からコンビニで買い物なんかしたくないし、近くの神社への初詣や、ちょっとした年始のあいさつなどのイベントなどもなければ、それはそれで寂しいかもしれません。
紅白やらお笑いは今もそんなに見ないけれど、お正月らしさが薄れていくいま、やっぱり、昔のお正月の、あの、寒いなかにしーんと静まりかえった「いつもと違う」街の表情が、なんだか懐かしい気もします。


タイタニック

ついに見てしまいました。ビデオで。あの「タイタニック」です。二本組みで、ずいぶん長いなぁと思いましたが最後まで一気に見ました。
「愛について」の対談に出演してくれているヘリー・マー氏が厳しくこきおろしていたので、あまり期待しないで見始めたんですが、長いストーリーにもかかわらず退屈はしませんでした。
要するに、パニック+恋愛の映画、よくあるといえばよくあるパターンなんですが、特撮の出来は素晴らしく、テレビ画面でみていても、後半の沈没シーンなどリアルな迫力がありました。船内のインテリアや衣装などの豪華さも見るべき価値のあるものだし、全体的に、お金のかかった贅沢なつくりがいいですね。
でも、ストーリーの内容とか質とかいう問題になってくると、うーん・・・なんともいえません。まとまりという点ではまとまっていましたが、運命の恋とかなんとか騒がれている、あの主人公二人の恋愛ドラマに感動したかという話になると、私自身はまったく感動しませんでした。

なんといっても、ディカプリオ演じるジャックと、ケイト・ウィンスレット演じるローズの主人公カップルが、ぜんぜんカッコよくも可愛くも見えないんですね。だから、あのカップルに感情移入できないんです。ジャックは、たんなるいい加減な女たらしに見えるし、ローズは17才という設定なのに、もはや中年過ぎた女のふてぶてしさすら感じさせます。なんでだろーなぁ、顔のせいかなぁ、と思っていましたが、彼らには、「怒り」とか「自己主張の激しさ」はあっても、「初々しさ」とか「戸惑い」、「誠実な苦悩」などという表情がないんですよね。決定的にそれらが欠落していて、それで、どっちも性格悪いやっちゃなぁ、という感じなんですよ。

そもそも成り金男のところへ嫁に行こうとしている没落貴族の娘と、根無し草でぶらぶらしている貧乏絵描きの恋なわけです。もっとせつなくなってもいいはずの設定じゃありませんか。でも、せつなさ、というのは辛さに耐えたり、思いをこらえて目で語る、という微妙なやりとりのなかに生まれてくるんですよね、ふつうは。
ところがどっこい、このカップルの辛抱がないことときたら。まさに、自分のやりたい放題。
とくに、ヒロインのローズ。のっけから、蓮っ葉にふてくされた反抗期。豊満ボディに大人びた顔だちなのに、中学生なみの幼稚さ。実の母親が困窮のなか一人ぼっちになるというのに、それもかえりみず発作的に自殺しようとする。ほんとに死ぬ気ならまだしも、それだけの気合も入らない様子。助けてくれた男にすぐさま傾倒してしまい、親に言われていったん諦める素振りは見せたものの、それも一瞬しかもたず、挙げ句の果てには自分から誘ってヌードのスケッチを描かす始末。また、それを金庫にしまっておいて、婚約者が見るように仕向けるに至っては、なんと悪知恵にたけたことでしょう。ちょっと信じられない図太さです。もう、鋼鉄の心臓してますね。
こんな女だったら、ジャックがそばにいようがいまいが、何をやってでもたくましく生き抜いていくことでしょう。ジャックと出会ったからこうなれた、というよりは、もともとこういう自己中心的な素質にあふれていて、たまたまそこにジャックという引き金、起爆剤が与えられた、というほうが正しいように見える。ジャックは、彼女のジャンピングボードであった、というわけです。

1912年というと、ミニスカートで足を見せることさえ、今じゃ考えられないほど恥ずかしい時代でした。しかも、名門の婦女子、まだ17という設定なんですよ。なにがあっても、結婚前のヌードスケッチのモデルになるなんて、想像もできないはずです。それをしゃあしゃあとやってのけ、婚約者を裏切り、ポケットにはいっていた彼のダイヤも返さず、見も知らない人たちの前で、望まれてもいない自分の恋愛譚をとうとうと披露するだなんて、ほんと、この女にしかできない芸当ですよ。そして、しかも、それらをやりおおせたあと、一片の恥じらいも後悔の表情もない・・・これは天性の妖婦です。これだったら、ケイタイで援助交際募ってる女子高生の心のなかのほうが、まだ複雑かもしれません。アメリカお得意の、「過剰なポジティブ・シンキング」タイプです。

ジャックのほうもまた、彼女の強心臓とつりあうだけのノーテンキさを備えた男です。かなりの身分違いだというのに、彼は自分から彼女に言寄る。これには驚かされます。どこにそれだけの自信があってそういうことができるのか、不思議で仕方がない。この手の男は常に、何の根拠もない自信に満ちあふれているもんなんですね。愛していればいるほど不安になる、などという繊細かつ高尚微妙な感情の動きはなく、安手のフェロモンとアドレナリンを吹き出しながら、調子のいい言葉をささやく、天性の女たらしです。そこには、「洞察力」とか「責任感」というものがとことん軽視、または無視されている。

このふたりが無事に救助され、駆け落ちするとしましょう。
貧乏画家ジャックの絵は売れない。しかも放浪癖がある。だけども口は上手いし、女にももてるようです。それはローズを口説いたときの彼の自信に満ちた表情に現れている。
贅沢な暮らししかしてこなかったローズは、洗濯の仕方ひとつ知らないはずです。はじめは「貧乏ごっこ」も面白い。でも、それが面白いのは、あくまでそれが「ごっこ」だから。それが唯一無二の現実であり、ほかにはもはや選択肢がないのだ、他の選択肢は自分から捨ててしまった、もう戻れないのだと知るとき、彼女がどう根性を据えて生きていくか・・・これこそがむしろ見ものだと思います。
ま、きちんと人間を描いた、いいヨーロッパ映画などは、物語は「ここから始まっている」ものなんですが、「これに至るまえで終わっている」のがハリウッド映画のハリウッド映画たるゆえんかもしれませんね。
それは永遠に、おとぎばなしなんです。


顔の見えない関係から T

本題に入る前にちょっとここんとこ、気にかかっていることをふたつほど。
そのひとつは、「今月の・・・」をどうするか、という問題。ホームページ開設当初からあるんですが、はじめはほかのコンテンツも少なかったので、水増しの付録でやってました。でも、なんとなく面倒になった感じ。内容をリニューアルしようと思っていろいろ考えてましたが、いっそ、さっぱりやめてしまって、まったく別のコーナーを新しくつくってもいいかもしれない、と。近日中にはなんとかしたいですね。「工事中」の文字は、どうも中途半端でイヤです(~_~;) いいアイディアがあれば、メールください。
もうひとつは、「アルマゲドンを見に行くかどうか」という、問題ともいえないような問題(~_~;)
この「聞いて(7)」で、見に行きたいって言ってたんですが、あれからビデオで「インディペンデンス・デイ」を見て、ひどく失望してしまったこともあって、どうもこのテのものには期待できないかなという気分。そうそう、「ディープ・インパクト」もけっこう評判悪かったということですから。はぁあ〜、この「アルマゲドン」、劇場でお金払って見るだけの価値が、はたしてあるかどうか? せこく悩みますねぇ。もうすでに見た方、あるいは、見た人から感想を聞いた方などいらっしゃれば、メールください。

〜*〜*〜*〜*〜

さて。本題です。
このところ、青酸宅配事件や伝言ダイヤル事件以来ですが、匿名性の高いメディアのあり方、そこでの人間関係がちょっとした注目を浴びています。いわゆる、顔の見えない関係ですね。まあ、前から言われていたことなんですが、こういうインターネットでのつながりは、その最たるものでしょう。
私は伝言ダイヤルはしたことがないし、その存在すら知りませんでした。だいたい、よくわからない人と電話で話すなんて、うっとおしすぎます。ネットでチャットもしません。これは、恐らくやってみても、キーを打つ労力に見合うような話の内容にはならないだろうと思うからです。伝言板にも、たいていは書き込みしません。なんとなく面倒なものだし、すでにある種の雰囲気とか、話の流れができあがっているところへ参加するとなると、よほど面白い内容、興味ある会話でない限りは気遅れしてしまいます。非常に面白いホームページなど見つけたときには、たまにメールをだしたりします。
要するに私個人の趣味としては、自分が選んだ人と、ある程度突っ込んだ内容の話をするのが好みなんですね。ですから、特定されない任意の誰か、または選択の余地がない状況での、あたりさわりのない話は、長くやっていると疲れてしまいます。どうも、エネルギーの無意味な浪費に思えてしまうんですね。たとえば、学生だったら、学期の初めに同じクラスでたまたま隣に座った誰かと、なんとなくあたりさわりのない友達になって、そのままずるずると友人関係が続いたりしますが、そういうのはやっぱり疲れます。卒業したあとも、ずるずると年賀状がきたりしますが、たいてい私のほうから返事を出さなくなって、関係が終了する。でも、自分が自発的に選んだ数少ない友人に対しては誠実だし、マメなほうだと思いますね。
まあ、こういう人間関係の好みを、このネットでも変わらず実践しています。ですから、いま、マスメディアで言われている、まことしやかな論説、つまり、「今の若者たちは、モノ余りの時代、情報過多の時代を生きて、生身の人間としての接触を嫌い、希薄な人間関係を求めている」、というのは、私自身にはピンときませんね。ま、もう今時の「若者」ではないからなのかもしれませんが(~_~;) でも、私の見たところ、そういうのは年齢に関係ないことだと感じられます。私たちの親の世代が情の濃い、人間味あふれる関係を指向してきたかといえば、そういう人ばかりではありませんし、また、そういう社会が実現していたわけでもありません。

匿名であろうがなかろうが、いや、匿名であればこそ余計に、関係のなかで各人の「人間性」が重要になってきます。顔の見えない関係のなかでは、年齢も社会的な立場も、容姿の美醜すらも意味をなさず、お互いの人間性だけが、接点になるしかないからです。そして、その顔の見えない関係を求めているのがオジサン・オバサンでなく、今時の「若者」だとしたら、それこそ、彼らは人との間に、「純粋に人格のみでつながる関係」を期待している、ということがいえるのではないですか。このようなネットでの関係を求める人が、たとえば、「お互いに匿名だからこそ、ほんとにいいたいことがいえる」などと発言するのは、希薄な関係を求めているのではなく、実はむしろもっと中身の濃い、本音の関係を求めていることの表われではないかと思います。ネットや伝言ダイヤルに、現代社会における情の不毛さや不気味さをみるよりも、私としては、人間が人間として生きる限り、求めてやまないのは何をおいても「つながり」であり、関係における他者からの理解や精神的な充足なのだと、再認識させられる気がするわけです。


顔の見えない関係から U

私たちはどうして、インターネットでのメールフレンド募集や掲示板などという、「顔の見えない」つまり素性の知れない、ともすれば無責任になりがちな危険性をはらんだ場で関係をもとうとするのでしょうか。それは、関係がそれだけ希薄でラクだからでしょうか。生身の人間としての接触ではないから気軽、そのうえスピーディかつ便利だから、でしょうか。それだけじゃないと思いますね。ここには、なにがしかの期待感をもたせるものがあるんではないですか。

これは私の印象ですが、顔のみえない、素性を明かさなくていい場というのは、バカンスの旅先みたいなもので、普段は抑圧されているものを解放させる効果があるんですね。いや、旅先以上に開放的になれるのは、見えるものがないので、社会的立場や容姿、性別すらもわからず、文章から推測される人格以外に、判断される基準がないから、なんです。ゲイになりきれない男でもネットオカマならできるでしょうし、容姿に自信がない女の子でも、やり方しだいでネットアイドルになれますよね。逆にいうと、もともと容姿に優れた人や、社会的なステイタスの高い人には、こういう世界はいささか不利である、といえるでしょう(~_~;)
まあ、インターネットというのは、それにちょっと精通しさえすれば、まさに工夫と人間性だけが問われる比較的公平なツールなわけです。
そこに期待感を持ち、そのなかで関係を求める人が多く出てきた、これはやはり裏を返せば、私たちが日頃それだけ、社会的な立場や年齢、性別、容姿などからプレッシャーを受けている、それでもって言動が無意識に、あるいは意識的に制限を受けている、ということの証明ではないでしょうか。
だって、ふつうねぇ、誰でもびっくりするんじゃないですか? 三十を超えたような大の男が、メール募集やなんかの掲示板で、「○○どぇす(^o^)/ 俺、ちょっと年くってるかもしんないけど、見かけは若いって、よく言われちゃうのだ♪」なんて書いてるの見たら。こんなの、ほんとにこの通りに言うようだったら、もうマンガですよね。「どぇす」って・・・いったいそれなんやねん(-_-;)、という感じ。
いやぁ、今は慣れましたけどね(~_~;) こういう人でも、昼間はスーツ着て、それなりにきちんとオシゴトしてるのかもしれないなぁって思ってます。でも、内面的には、「どぇす」で表現される自分がいるわけで、ネットでなら、それが日の目を見られるわけです。
いろんな表現がありますが、私は最初、顔文字っていうのに馴染めなかったですね。知らない人とのメールのやりとりに、そんなけったいなマークつけるのって、なんだかすごく幼稚なような、ふざけてるような気がして。で、あるとき、弟にそう言ってみた。そしたら、弟いわく、「文字だけだったら文章が意味してる微妙なニュアンスとか、わからんときがあるから、顔文字は有効。べつに失礼にも値しないこと」だと。ま、ビジネスレターでもないんだし、それもそうかもしれないなと思いました。以来、使い出したら、いつのまにか慣れてしまいました。まあ、あまり多用しないほうだと思いますけど。複雑なものは使わないし。でも、私の友人なんかには、「やっぱり使わない」派もいますね。自分の雰囲気に合わないから、と。妙に文章が若っぽく、カルくなっちゃうようで、嫌なんだそうです。


顔の見えない関係から V

よく、「自由には責任がともなうものだ」といいますが、こういう顔の見えない世界の自由さにおいても、やはりそうですね。管理されない自由な社会であるほどに、各人がモラルや常識をきちんとわきまえていなければいけないはずなんですが、世紀末もここに至って逆に、モラルや常識の崩壊という現象が起こっているように思うのは、私だけでしょうか。

なんでもありの世の中です。電車のなか、平然と鏡とにらめっこでメイクをしている若い女性に、「まあ、はしたない」などと眉をひそめるのはまだ序の口、いつのまにか下着姿で公然と歩き回るようなファッションがもてはやされ、それもなんとも思わなくなる。子供同士のイジメの陰湿さに驚いていたら、今や校内で教師に向かってナイフを振りかざす始末。公園で子供のケンカを見つけても、注意ひとつするのさえ命懸けです。実際、PTAなどで盛り場など見回りする際には、生徒たちの非行を目撃しても注意しないようにというお達しが出ているとか。このごろはそういう場合、ただちに警察に連絡するのだそうです。
でも、なによりも驚くべきことは、人間って、案外すぐに馴れるもんだ、ということですね。信じられないような事件が起これば、そのときはびっくりするけれど、次に似たようなことが起こったときには、「まあ、そんなこともあるだろう」というような気分になっている。そういうことが続けば、やがて、「どうしようもない、時代が変わったんだから」と、関心をなくす。
このまま、もっともっと、なんでもありの世の中になってくるんでしょうか。

そして、インターネットなどの「顔の見えない」社会。
隣人が何をしているかわからない社会になった、などといいますが、ここではそれどころの騒ぎではありません。このチャットの相手、メールの相手は果たしてどこの誰なのか、何をしている人なのか、相手の自己申告以外は、たいていなんにもわからないのが実情です。もちろん調べればある程度わかることですが、普通はそこまでしないでしょう。
まったく知らない相手と知らない場所で出会ったとき、警戒するのが当然だし、自分のことはなるべく明かしたりしないものですが、どういうわけか、メールなどちょっとやりとりしただけで、警戒心がなくなってくるのが不思議なところです。それは、相手の人間性を、その言葉から推測したつもりになっているからなのかもしれません。そして、伝言ダイヤルであれ、メールでの出会いであれ、たいていの男女の目的は、まぁ、上品に言えば「お友達になりたい」ということでしょうから、実際に会おうということにもなる。でも、当たり前のことなんですが、言葉は嘘をつくためにも使われますし、意図的に嘘をつかなくても、その人の言葉から受けるイメージと、実際に生身の身体をまとったその人の実体がずれていることなんて、おおいにありえることなんですね。
まあ、外見が自分の許容範囲にはなかった、というようなことならば、まだ笑えますが、はっきりと悪意をもって近づいてきたようなケースだと、被害者として事件に巻き込まれることにもなりかねません。
それこそ、インターネットなんて、最初から実体のない世界での出会いなんです。社会的な立場や年齢、性別、容姿などに制限を受けない、まさに工夫と人間性だけが問われる比較的公平なツールだということは、自分自身の工夫や人間性のあり方も、そこでは問われている、ということなんですね。社長でもヒラでも、先生でも学生でも、女性やお年寄りでも、ここではみんな同じ条件なんです。社会的弱者でも対等にものがいえる、ということは、誰も彼らを守ってくれない、ということも意味するわけです。

ますますなんでもありになってきた世の中は、このネット世界に似ています。現実もバーチャルも、すべてがボーダレスになりかかっているという感じがしますね。そして、漠然と、これでいいのだろうかと思っている。
経済にしても、不況のなかで価値観の崩壊と再構築が提唱されています。いわく、「むやみに消費を推し進めるだけの経済では、やがて人間社会そのものが立ち行かなくなる」という視点。もっとシンプルに生きよう、確かにそれもひとつの案でしょう。
なにが正しいか、なにが間違っているのか、誰にもよくわからなくなってきた昨今。この現象を嘆く、自他共に認める常識派、良識派のみなさんもいらっしゃるでしょう。あまり常識的でも良識的でもない私自身でさえも、ときどき思いますよ、「これなによ?ったく、世の中狂ってる!」って(~_~;)・・・
でも、考えてみれば、こういう時代性って、個にとっては生きやすいかもしれないんですね。かっちりと社会の構造が上から下まできまっていて、ゆるぎない信念や理想、常識などに支えられている場合、個人の立場というのは、そのなかで生きることを前提に、自分を調節していかなきゃならない。調整力に優れることを要求されるんです。ですが、こういう「なんでもあり」の乱れた世の中というのは、不愉快なことも多いけれど、よりがむしゃらな個のパワーが強まる気がしますね。お上なんか当てにならない、だから、自分の生活は自分で守るしかない。いっこうに功を奏さない経済政策に焦れて、スーパーや百貨店が消費税分還元セールを始めるようなもんでしょうか。で、それがまた当たる。リストラの嵐が吹き荒れ、もはや、年功序列で気楽なサラリーマンをやってはいられなくなってきた。人より一歩抜きんでようと、資格などを取るために勉強する人も増えたといいます。

しょせん、人間の常識、良識などというものは、「衣食足りて礼節を知る」ということでしょうか。
歴史が繰り返してきたように、この価値観の混乱も、社会が全体としてリッチになり、安定すると消えていくものだと思われます。
とすると、インターネットの「なんでもあり」も、まだ「衣食足りて」いないからでは? もっとネットの利用形態が洗練され、社会的に浸透、認知されていくにつけ、なにがしかのヒエラルキーも確立し、いろいろなルールもできていくのではないでしょうか。それが、バーチャルを超えてリアルになる、ということかもしれません。
そこには、いまのバーチャルゆえの面白味は、なくなってしまうかもしれません。が、そもそもバーチャルだと思うのに無理があるんで、はじめから、ここには現実というものがあるわけです。この文章を打っている私は生身の人間だし、読んでいるあなた自身も、この瞬間、やっぱりどこかで本当に生きているんですものね。顔が見えないというだけで消し飛んでしまうほど、現実というものはヤワではないということです。



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