神戸ルミナリエ

17日の夜、神戸のルミナリエを見てきました。
点灯の瞬間を見たいというNさんの希望で、会場に六時少し前に着くよう急いだのですが、結局間に合わなかった私たちが見たものは、駅前からつづくすごい人波。とりわけ、ガレリア(ゴシック調の電飾アーチ。ルミナリエのポスターにもなっているアレね)会場の手前からは広い道路が人間でいっぱい、歩くこともできない有り様。食事でもしながら、少し空いてくるのを待とうと、レストランを探せば、そこにも人間の列が・・・
去年も行ったのですが、こんなに人出はなかったように思います。ガイドブックを見れば、毎年、規模が大きくなって、百万人ぐらいずつ、来場者も増えて続けているとか。このぶんでいくと、今年は五百万人を軽く突破するのではないでしょうか。
美しいのは確かですが、とにかく、人込みのなかを歩くのが関の山、立ち止まってゆっくり写真を撮っていられる雰囲気でもないし(三脚据えてる人もチラホラいましたが)、クリスマスの時期にふさわしく、しっとりした聖歌なども流れてはいますが、ちょっとそういうしゃれたムードにはなりにくい感じがしますね。華麗なガレリアの下を通り抜けて、ふと後ろを振り向くと、ぞくぞくと行進しながら迫ってくる人々の黒い頭が、ほんとうに押し寄せる波のように思え、その光景にむしろ圧倒されてしまったことでした(~_~;)
でもまあ、一見の価値はあると思います。近郊の方なら、少し遅い時間に行ったほうが、混雑は避けられるのではないでしょうか。警備の人たちが拡声器で怒鳴っているなかを歩いたって、ちっともロマンチックではありませんからね〜(~_~;)

日本のクリスマスイヴというと、子供の頃はケーキとプレゼントが楽しみな一家団欒の夜、それがいつのまにかカップルのイベントになってしまうんですが、これって、よその国々もそうなんでしょうか?
キリスト教圏では、それなりにけっこう真面目な祝祭だと思うんですが、私たちにとっては、ツリーだのサンタクロースだのといっても、各人が盛り上がるための、ただの口実にしかすぎません。何が嬉しいんだか、さっぱりわからないんだけれども、みんなこぞってメリークリスマス!なんですよね(^^) 考えだせば馬鹿馬鹿しいんだけど、人々がそれをコミュニケーションのきっかけとし、経済効果があったりもするんなら、それはそれでいいのかもしれません。
私は今年、クリスマスは香港で過ごすことにしました。べつにクリスマスにこだわったわけではないけれど、どうせ行くんなら、なんだかんだとイベントや飾りつけがあるのも面白いじゃないかと思ったわけです。
香港は、これで4度目。でも、以前の旅行はみんな、初夏から夏にかけて行ってきたので、冬の香港は初めて。22日から25日までなんですが、すごく楽しみです。 返還後の香港がどうなっているのか、興味ありますね。久しぶりの中国語が通じるかどうか不安ですが、香港の人たちにぜひ聞いてみたいです(^^)
ブランド・ショッピングなんて、この世相にあえてしようは思いませんが、憧れのペニンシュラでアフタヌーンティー、というのは絶対実行するつもり。だって、いままでしたことなかったんですもん。それから、ハーバー・プラザのロビーでカクテルなどいただきながら、対岸の香港島の夜景をゆっくり眺める。この二点は、この旅で欠かせないコース・・・
でも。ここでちょっと心配になるのが今回の同行者(~_~;)
優雅で洗練された英国式アフタヌーンティーよりも、屋台で食べるアツアツのマントウのほうに引力を感じてしまいそうなタイプなもので・・・ああ、でもそうなると私のロマンが、美意識が・・・
これは、今からうまく説得しとかなくっちゃ(-.-)


Xmas in Hongkong

いってきました。香港へ!
う〜ん、いついっても、いい街ですね〜(^^)
たべものは美味しいし、活気があって、雑然とした不思議な魅力がある。
返還後、何か変わっているかと思えば、見たところ何も変わっていないようですね。ガイドさんの香港人も、「なぁ〜んにも変わってません」といってました。
新しくできた空港は超巨大、免税店なども多数、ここだけでおみやげの買い物はすべて揃えられそうな感じです。空港、ホテルのなかは言うにおよばず、街のいたるところにツリーが飾られていて、ビルの外壁にも電飾絵画。夜になると賑やかに輝き始めます。気温はずいぶん暖かく、街中なら大阪の春・秋ぐらい、夜でも薄手のセーター一枚はおるだけで外を歩けるほど。

世界屈指の名ホテルとして超一流の格式と伝統を誇る、憧れの『ペニンシュラ』のロビーでアフタヌーンティー、というのが、今回の旅では欠かせないコースだと宣言していた私ですが、同行者を引っ張って、詣でてまいりましたよ、おペニンシュラ様に。
その優美かつ威風堂々たる外観にため息、胸で手を合わせ、しばし目を見張ってたたずむ私。
隣で「なにこれ。貧乏人を威圧してんなぁ」とうそぶく同行者をひと睨みしつつ中へ入ると、食器の触れ合う音とともに、ピアノと少女たちの聖歌隊による優雅な調べ・・・はやる気持ちを抑えてあたりを見回すと、そこにはアガサクリスティの描くような正統派英国式ティータイムの姿があったのでした!

アイボリホワイトの壁に金のアクセント、宮殿かと見まがうほどの豪奢なロビーカルティエやラリックなど超一流ブティックのウィンドウが取り巻き、優に人の背丈の倍はあろうかと思われる大きなツリーをはじめ、いろいろと凝ったクリスマスの飾りつけがしてあります。ロビー中央で歌う聖歌隊をはさんで、左右にしつらえたテーブルには、まっ白いクロスがかかけられ、ほんものの銀のカトラリーにティーポット、三段になったお皿にはクッキー、プチケーキ、サンドウィッチ、スコーン、パイ、チョコレートなどが、これでもかというほどのっています。ジャムとバターも小皿に。あたりに漂ういい香り、そして、小粋な羽根つき帽子などかぶってそこに座っている西洋マダムと紳士たち。
ああ、なんて絵になるんでしょう!
それではさっそく席へ案内してもらおうとすると、慇懃に差し出されたメニューには、アフタヌーンティー300HK$(ホンコンドル)とあるではありませんか。なんと、普段の倍の値段!きっとクリスマスシーズンのせいです。1HK$は、約16円。ふたりでなら、サービス料金込みで日本円にして約一万円?きゃーっ!たかがお茶とお菓子で???
思わず顔を見合わせる私たち。でも、いまさらあとへは引けません。だって、ここはおペニンシュラ様ですもの。覚悟を決めて、アフタヌーンティーを体験することに。で、証拠写真をパチリ(~_~;)
そのたまげた値段を無視し、同行者の「イギリス人って毎日こんなんやってんのかな?こんなにたくさん食べてたら、栄養過多で死ぬで」などというつぶやきに耳をふさいでいれば、ほんと、夢のようにステキな極上のティータイムでした。あ〜、シアワセ、シアワセっ(^^)

ホテルを出れば、もう夕暮れ。
夜にはハーバー・プラザでカクテルという予定だったけれど、お茶とケーキですっかりおなかいっぱいになって満足してしまったのと、昼間歩きづめで疲れたのとでハーバー・プラザ行きはパスすることにし、海岸沿いの遊歩道をのんびり散策することに。九龍サイドから香港島を眺めれば、ゆっくりと日が落ちるにつれ、ビルの壁面にネオンで描かれたツリーやサンタなどが浮かび上がってきます。暑くもなく、寒くもなく、心地よい風が吹き、細い三日月の下を観光客や地元の人たちに混じってぶらぶら歩くにはもってこいの気候・・・う〜ん、旅気分が盛り上がりますね(^^)

クリスマスに香港、これはけっこうお勧めできます(^^)
みなさんも、来年、行ってみてはいかがでしょう?


「フランダースの犬」と青酸宅配事件から

ずっと昔のアニメ番組に確かカルピス劇場というのがあって、「アルプスの少女ハイジ」や「母をたずねて三千里」など、30分一回を二十回ほどの連続テレビ小説ふうに放映していました。ときどき再放送もしているのですが、ご存知でしょうか。どれも主人公は小学生くらいの子供です。当然、彼らがドラマのなかで、いたずらをしたり夢をみたり、現実に振り回されたりしながら、少しづつ成長していく、という教訓的な物語パターンが多い。親が安心して子供に見せていられるような、ごく良心的な番組でした。

そのシリーズのひとつに、「フランダースの犬」がありましたが、どういうわけかこの話、とても暗いんです。
「ハイジ」などは、ストーリーの底辺に明るく前向きな調子が常にあって、伸びやかで健全な感じ、何か困難が生じて、見ていて可哀相に思える場面があっても、それは一時のこと。つらさを乗り越えた主人公は、またすぐに笑顔を取り戻します。けれども、「フランダースの犬」のネロという男の子の場合は違う。彼は、これでもかこれでもかとばかりに不運な目にあい、少し明るい兆しが見えてきたとしても、またすぐに悲しみのどん底に突き落とされます。もう、ストーリーの基調とするものが悲嘆であって、とくに最後は、悲劇的結末に向かって一気に悲愴さを増していくんですね。

両親がなく、牛乳運びのおじいさんとつましく暮らすネロは絵を描くのが好きで、才能もあったのですが、その貧しさゆえに「絵など描くのはなまけもの」だと罵られ、村人から何かと白い目で見られる。でも、絵を町のコンクールにだして、一等がとれれば、賞金ももらえるし、学校にいって絵の勉強もできる。それが彼にとっては、そういう苦しい生活を変えることのできる、ほとんど唯一の希望だったわけです。まあ、おじいさんが亡くなってしまったり、放火犯の疑いをかけられたり、牛乳運びの仕事がなくなってますます貧しくなったりと、紆余曲折あるのですが、彼は周りの友達にもはげまされて、なんとか絵を描きあげ、コンクールにだすんですね。でも、クリスマスに発表された結果は、惜しくも落選・・・
彼は、もうすっかり生きる希望をなくしてしまい、凍てつく雪のなかを、忠実な飼い犬パトラッシュと、あてどもなく歩き始めます。そうやって、誰もいない教会までたどりつくと、そこに飾られている大好きな絵に見入る・・・その少し前に、彼が雪の中で大金を拾って届けたのを機に、はじめて、村人たちの彼に対する見方も変わり、いままでつらくあたったことを後悔するのですが、そのときには、ネロは、たぶん寒さと疲労のためでしょう、ひっそりと教会で息絶えてしまうのです。犬とともに。そして、ラストにナレーションが入って、彼の魂はもはや苦しみのない天国に召されたのだといって終わるわけです。

今の私から見ると、子供向けの番組としては、こんなのってどうだろうなぁ、と首を傾げてしまいます。まあ、原作自体が大昔のもので、ヨーロッパのキリスト教文化的価値観にのっとって書かれたものですから、これはこれで、教訓的な意味合いをおびているんでしょうけれども。
「現世に苦しんだぶんも、清く生きれば来世で取り戻せる」的な発想は、いろんな宗教でありがちなパターンですが、私自身は、誰かが言ったように、それって「人民のアヘン」かもしれないと思いますね。そんな考えに傾倒していくと、浮世離れした孤高の人になってしまったり、妙にプライドの高い傲慢な人間になったりするんではないかしら?
このネロ君の場合も、救いの手を差し伸べてくれたり、助けになってやろうという人が、いないわけではない。けれども、ネロ君は、そういった人に助けを求めるのを、どうも潔よしとはしないんですね。ああいう境遇で、しかもプライドが高ければそういうふうになってしまうものなんでしょう。この子のプライドというのは、もう相当に高いですよ。なにせ、たった一回、コンクールに落ちたからといって、「もう駄目だ」と、生きていく気力が萎えてしまうほどなんですから。・・・これって、相当な自信家ではないですか?まあ、おじいさんが死んだあたりから「うつ病」的になっていて、最後の希望の糸がプッツリ切れたのだ、ということもできますが・・・
子供のくせに、どうして、「つらいよ、寂しいよ、お腹が空いたよ」と泣かないのか、それが不思議です。
子供でなくても、泣かないことが、泣きごとを言わずに自分ひとりで何もかも背負い込むことが、美徳であると思っているとしたら、それはどうでしょうね。そんなの、傲慢なのではないでしょうか。

完璧な人などいない。人は、補いあい、ささえあって生きていくように出来ています。
ならば、プライドは高くあってもいいし、むしろ、高く持つべきでもありますが、人に助けを求めることが必ずしも自分のプライドを傷つけるものではないと思うんです。
何もかもひとりでできなくてもいい、助けてもらってもいい、ひとりで我慢しなくてもいい、時には泣いてもいい、誰かに取りすがってもいい、そういうふうに思えないのは、やっぱり、依怙地だし、傲慢なのではないでしょうか。それを我慢することは、美徳でもなんでもない、だって、そんなことは、そもそも「できっこないこと」で、結局は自分を傷つけ、にっちもさっちもいかなくなって、周りに迷惑をかけることになりがちですよね。

自殺願望のある人々の間での、インターネットを通じた毒物宅配が明るみになり、世間の耳目を集めています。私は、自殺について相談するホームページなどというものがあって、そこにアクセスしたりメールをだしたりしている人がけっこういるんだと知って、びっくりしました。そのうえ、自殺用の毒物まで売買しているとは・・・
知らない人から見れば、なにやら胡散臭い「インターネットなるもの」では、魑魅魍魎が跋扈しているのだと思われても仕方がありません。
真面目に生きていれば、あれこれと悩みもするし、ときには、「生きているという、ただそれだけがつらい」ということもあると思います。そんなとき、ささえを求めて周りを見回しても、誰も自分のことなど気にかけてはくれない、自分もまた気にかける必要もない、どうでもいい存在に思える。非情になってクールに考えれば、人の命など、そんなにかけがえのないものではありません。六十数億にまで膨れ上がった人口は、いまや早急にどうにかしなければならない「問題」ですらある。こんな平凡な、さしたる天才のない私の代わりなど、どこにでもいるように思えるし、いまここに存在しなければならない意義など、さしてないようにも思える。そういうものだと思います。そういうものなんだなぁって。

自殺も、人間に与えられた能力のひとつ。
こんなにままならない世の中だから、こんなに虚しい人生だからと、死んだってかまわない。誰が死んだとしても、周囲に与えるのはそのときだけの衝撃。ときには思い出される、追憶の対象たりえる、けれども、生きている人々は過去に生きているわけではない。この現在が、やがては過去になっていくように、すでにある過去は、もっともっと遠い、ぼんやりとしたものになっていくでしょう。いつかは、そうなる。死者は、生者の行く道を、さえぎることはできません。なぜって、生きていくことは、すべての生命にとっての自然だからです。
こんなにままならない世の中だけど、こんなに虚しい人生だけど、でも、生きている。なんとなく無目的でも、ときどき、死にたいと思いながらでも、それでも、生きている。ただ、生きていること、それだけでそれは自然なんですね。ありのまま、ということだと思います。
新聞に、例のホームページを見て毒物を手に入れたある主婦の言葉が載っていて、とても印象的でした。
・・・「青酸カリはお守りなんです。いつでも死ねると思うから、もう少し生きていようと思える」
劇薬を手に入れなくても、いろんな方法がある。私たちは、その気になりさえすれば、いつでも死ねるのだと知っています。この人生が、そのとき終わることも知っている。その先はなんともいえない、けれども、いまあるこの人生は、確実に終わる。終わりある生というのは、考えようによっては、なんと優しいものでしょう。
生きものにとって最悪の事態は、死です。死んでしまえば、この生にまつわることは、もうすべて終わり。
裏を返せば、どんな精神状態、どんな貧困や苦しみのなかにいて、たとえ何もかも失っても、生きている限り死だけは残されている。
死は、最後の最後まで私たちを見守ってくれる親友であり、私たちを陰でささえてくれる相談相手ともいえるのではないでしょうか。
誕生は喜び。死は救い。
その狭間に生きる私たちに、未来永劫、終わらない苦しみはなく、忘れられぬ悲しみもない。
死が私たちのそばに、いつも残されていることで、私たちは、生きているあいだに思い切って、自分の「ほんとうの望み」に手を伸ばす勇気がもてるように思います。
たとえいくつになっても、何度でも、諦めずに。
いつでも死ねるんだから。誰もみな、いつ死ぬかは、わからないんだから。


11を読むTOP