1998年08月〜

ホームページづくりのこと

なんだか難しそうだと思っていたけれど、こんなに面白いものだったとは。ホームページビルダー3を使っているんですが、操作に慣れたら、とっても簡単。へ?HTMLってなに?という私にでもラクラクつくれてしまう(^^) 今はそんなの知らなくてもいーのね。壁紙なんかも自分で描いたりすれば手作りの気分が盛り上がる。もっと早く始めればよかった。でも、このソフトも、以前のバージョンは操作性に問題があって、使いこなせないままページづくりをあきらめちゃった人もいたとか。時の運って、ありますね。


翻訳小説のこと

私が翻訳物が好きなのは、生々しさがないからです。
日本の作家の、日本を舞台にしたものだと、どうしても、内容がリアル、まぁ、ストーリーそのものはリアルでなくても、舞台装置はリアリティありますよね。私は関西の人なので、「○○子は、梅田から御堂筋線に乗りかえ・・・」なんて描写があると、あの雑踏がすぐに浮かんできます。それがいいと思う人もいるでしょうけど、私は好みではないんですね。例えばTVドラマで、大阪などが舞台だと、ロケしているのはリアルな大阪の街なのに、役者のセリフが「どこかヘンな大阪弁」だったりすると、そのギャップで醒めませんか?同じ「つくりもの」なら、なにもかもつくりもののほうが、ストーリー自体のリアル感というのは損なわれないと思うんです。面白いのは、日本の小説でも、たとえば、乱歩や森鴎外などの作品は、その当時には、なるほどある種のリアル感があったんでしょうけれど、いまの私たちには、まったく非現実的で楽しめます。海外作品は、たとえそれがいくら現代的でリアルに描かれていても、日本人として日本に暮らしている私たちには、どこかしらファンタスティックな感じがある。それが昔の小説、もう、アガサ・クリスティとか、コナン・ドイルになってくると、フ ァンタジーノベル以外のなにものでもない(^^) ただ、翻訳物は、訳者の力量に左右される部分が大きいですね。そういう意味でいえば、マイナーな本は、やっぱり往々にしてマイナーな訳者が手がけているので、不利かもしれません。小説でなく、サイエンスもののノンフィクションや哲学ものだったりすると、一層それが顕著。何が言いたいのか、文脈をたどっても、さっぱり意味不明。カタカナと専門用語の羅列に疲れてしまい、こちらのアタマが悪いのかと思わされますが、一般向けの本なのに、そのターゲットである一般人の私に理解できる文章にならないのは、やはり原文が悪いか、訳者の非力か、どちらかだと思いますね。ほんとにアタマのいい人なら、ターゲットのレベルにまで気を回す余裕があるはず。


モーツァルトのこと

知人にモーツァルトの好きな人がいます。私は、モーツァルトって、あまり関心がなくて、映画「アマデウス」のイメージ、あの、「ひゃーひゃひゃひゃは!」という笑い声(~_~;)が、やけに印象に残ってたりするくらいなんですが、レクイエムはすごくいいと思います。でも、あれはほとんどモーツァルトが作曲したものではないから、あれをもってして、モーツァルトが好きだとはいえないし。うん、でもとにかく、「レクイエム」は凄いです。
もう最初のイントロイートスの出だしから、ぞぞっと鳥肌がたち、続くキリエで「これはタダモノではない」と思っているうちに、ディエス・イラエでバシバシっと往復ビンタをくらって倒れ、あれよあれよというまに、続唱の最後、ラクリモサでは魂を抜かれてぼう然と涙している、といった感じ(^^) サンクトゥス以降の流れはいまいちだけど、それまでで、もはや、じゅうぶんすぎるほど聴きごたえがあります。よく考えてみると、このレクイエムのノリって、プログレなんですよね。この大仰さ、悲壮感ただようリリシズム、一歩間違うと、とんでもなくダサいけど、成功するとストレートに人の情感を刺激する。
レクイエムというと、フォーレもきれいですが、いかにも「実用的」です。ほんとうにお葬式に使える。参列者にも、(恐らくは)死者にも、厳粛な敬虔さや、おだやかな救済を感じさせるようなつくりです。でも、モーツァルトのレクイエムは、ほんとうのお葬式には使えるかどうか。かなり息苦しいですよ。
私はわりと人間的な情念が凝縮したような作品が好みなんですけど、モーツァルトの作品というと、なんだか非人間的な感じがするんです。あんまり情にうったえないというか。わりと音がつまっていて、ときどきうるさいし、見た目は奇麗なんだけど情がない美人を連想させる。でも、例の知人にいわせると、これぞ天上の音楽、ということになるんだけど。展開が常人ばなれしていて、もうそれはベートーベンなどのように精神の苦悩とか、生身の作曲家の意図など「俗っぽさ」を感じさせない、純粋に宇宙的な美しさ、人間の情感を超えた天上にある魂の音、なんですって。それほど過大な評価ができるものなんでしょうか(^^)
まあ、確かに彼は、非常に洗練されたタイプで、自分の内面を作品世界でむきだしにするような芸術家ではなかったんでしょうね。40番を聴いていて思ったんですが、ある部分ではすごく繊細で叙情的にこちらの気持ちに寄り沿ってくる、でも、急に裏返って突き放す、というふうな感じがするんです。これは、たとえれば、非常に洗練された恋人ですね(^^) 普段スマートに気取った男が、ある時しんみりと過去のうちあけ話をしはじめて、その意外な無防備さにメロウな気分になっていると、また急に席をたって、振り向いた笑顔がものすごく完璧でクール・・・・というような(^^) ところが、レクイエムでは、その完璧な笑顔をかなぐり捨てた感じなんですね。自分の死を前にして。そこにあるのは、激しい慟哭ともいえるような内奥の叫び。まあ、恋人から、永遠の別れを前にして、「今までのは決して遊びじゃなかったんだよ、君をほんとに愛してたんだ」とかなんとかいわれたような衝撃です(^^) ねっ、誰でも夢中になるはずでしょ?
胸がつまって、涙なしには聴けませんよ。


「ほんとうの空色」のこと

「ほんとうの空色」っていう童話があったんです。これ、どこから出版されてるか、どなたかご存知ありませんか?子供の頃、友達に借りて 読んだ本で、どうしても忘れられなくて、大人になってから探し回ったんです。貸してくれた友達は、とっくに引っ越して、どこへいったかわからない。でも、その不思議なストーリーが、すごく気に入ってたんです。
あのね、主人公の男の子が学校の授業で絵を描いているんですよ。空色の絵の具をなくしてしまって、空だけが塗れなくて困っていたら、不思議な老人が、矢車草の青い汁で描くといいっていうんです。そのとおりにして描いたら、その絵のなかの空は、ほんとうの空になって、雲が流れたり、お日様や星がでたりするんです。そのイメージが、すごく魅力的でした。とくに、夜、画用紙の空が満天の星空になるくだりでは、それが欲しくてしかたなかった(^^) もう、詳細は忘れましたが、そのシーンが心にやきついていて、郷愁や想像力を刺激するんです。大きな本屋までいって、探したけれど、なにしろ、タイトルを忘れてるんで、そのときは見つからなかったんです。
でも、ある古本屋でぴぴっと直感が働いて、とうとう見つけたんですよ。それは、「ほんとうの空色」っていうタイトルでした。手にとって、ぱらぱらめくって、その場で買おうと思ったけれど、なぜか結局、買わなかった。うーん・・・なんていうか、買わないほうがいいような感じがしたんです。そのときになって・・・。タイトルがわかっていたら、いつでもまた買えるとも思ったし。
春の日に、青い矢車草を見かけるたび、花びらをむしって、画用紙になすりつけてみたい誘惑にかられた、その気持ちを、そのまま置いておこうかなって(^^) このまま再び読みかえすことなく・・・
物語の結末は、確か、雨が降るんじゃなかったかしら。ある日、雨が降って、画用紙の空もびしょぬれ、絵の具も流れ落ちてしまった・・・・というような感じだったと思います。
最近、また本屋さんとか図書館で探したら、私が見たはずの子供向けの童話文庫に、それが入ってないんですよ。シリーズから脱落しちゃったのかしら・・・?せっかく見つけたと思ったのに、また気になります。
それにしても、タイトルは覚えてるのに作者は忘れちゃうなんて、間抜けな話ですね(~_~;)


かなぶんとエイリアンのこと

うちはマンションなのに、敷地内にはけっこう木や草花が植えてあります。年々、それが大きく育って、共有の公園など、緑に囲まれてるっていってもいいくらい。当然、虫もいます。木の根元にはセミの死骸が転がっているし、ベランダの外壁に「かなぶん」がとまっていることも。体長が2cmくらいで、メタリックなグリーンの丸っこい虫です。飛んでいるのを見ると、迫力があって、ぎょっとしますが、あまりそんな光景にはでくわしません。見るからに身体が重そうだし、飛ぶのはあまり得意じゃないみたいです。
さて、このまえ、歩道横の植え込みの地面で、昼日中、かなぶんが何かしているのを見つけました。じっと見ると、なんと穴を掘っていたんです。身体が半分くらい、穴のなかに埋まっていました。こんなのを見たのは初めてなので、思わずしげしげ観察してしまいました。けっこう手早く掘り進み、横には掻き出した土が山盛りになっていきました。やがて身体がぜんぶ土のなかに隠れてしまうと、もう何をしているのか、私にはわからなくなってしまいました。いったい、かなぶんって、どうして土を掘ったりするんでしょう?卵を産むとか?
う〜ん・・・こういうのって、小学生の男の子ぐらいが知っていそうなことだけど・・・
好きじゃないですか、小さい男の子って、虫が。私も小学生のときは、こおろぎとか手でつかんでも平気でしたが、今は駄目です、虫は大嫌い。あの、カサコソって乾燥して硬い手触りが、もう嫌です。そういう意味で、小鳥の足とかも嫌です、触りたくないですねー(~_~;)
思うんですが、エイリアンとかモンスターって、必ずといっていいほど、爬虫類的か、昆虫的な姿してますよね、やっぱり、ああいう「問答無用の一方的恐怖」って、もう絶対に通じないというところから来てるのかも。犬や猫など哺乳類だと、なんか気持ちが通じる感じがしますもの。で、化け猫なんかだと、あんまり一方的な恐怖感はなくて、その昔、誰それにどうこうされた猫が祟って、というような「お話」がちゃんとある。でも、エイリアンだと、もう出会った瞬間からただひたすら怖いだけなんです。
そういえば昔、TV映画で、人間そっくりの友好的な異星人が、見た目は美男美女ばかりなんだけど、それは皮をかぶっているだけ、その正体はものすごく醜い姿で、じつは人間を襲って食べるために宇宙からやってきたのだ、などというストーリーがありました。それ見て、「美=善」「醜=悪」というセオリー通りすぎて、古臭いなーと思っていました。べつに、「その正体はものすごく醜い姿」ということにしなくても、美男美女が、そのままの美しさで人間をむさぼり食うほうが、凄みあると思うんですけど。


小食のこと

私はときどき小食だと言われます。まあ、一応女性ですから、「大食い」だと思われるよりはいいかもしれないんですけど、「何も考えずに食べたい物を食べたいだけ食べる」ということができないので、それで気を使うこともあります。例えば、どこかで食事をして、それが和食のナントカ定食、のようなものだと、ひとつのお膳に初めからすべての料理がのせられてきます。だから、これをぜんぶ食べられるかどうか、食べられなければ、そのうちの何を食べ、何を残すか、ということが一目瞭然でわかる。でも、洋式のフルコースのようなものだと、その目算がまったく立たない。メニューを見て、デザートまで何品目あるかということはわかるけれど、実際にその各皿の量がわからない。ちゃんと計算して食べないと、最初のスープや前菜で、ある程度お腹がいっぱいになってしまい、一番美味しいものを食べ損なう、という結果に。だけど、フルコースなんて、ひとりで食べに行くわけじゃなし、そのときには、やっぱり誰かほかの人とレストランに行ってるわけでしょ、なんだか、毎度毎度の皿を、あまり食べられないので、なんて残すのは、どうもお行儀が悪いようで・・・うちの母など、アンタ が食べるの見てたら、何か作ってやろうという気がなくなる、なんて・・・ひどい(;_;) 昔は言われっぱなしでしたが、最近はこう言い返すことにしてます。不必要に食べない、これこそが地球に優しい生き方なのって。
海外では、食事すると、ひと皿ごとの量が、もう日本の小ぢんまりしたものとは違います。以前ニューヨークのホテルで食事をしたとき、ステーキだったんですが、つけあわせのマッシュポテトだけでも、お茶碗に山盛りぐらいはありそうなのに、ミディアムに焼いたステーキがまた、日本で出される倍ほどはある。それで、私が精一杯半分ぐらい食べて、あとは仕方なく残していると、向こうのウエイターは、そんなに残すなんて信じられないんでしょうね、お皿を下げにこない(~_~;)・・・しょうがないので、食べられないから持っていって、と説明して持っていってもらう。そのあとデザートにケーキを切りわけてくれるんですが、わざわざ、ちょっとでいいから、と言ってるのに、またしても日本のショートケーキ三つ分ぐらいはドンと置いていってくれる。あー、きっと、信じられないんだなぁ、と思いました。こっちはひたすら恐縮しちゃって、だって、とってもおいしかったんですよ、それなのに、そんなに残したら、まるで「不味い」って意思表示みたいじゃないですか。それに、中央のピアノで何か弾いていたおじさんも、私たちのテーブルを見て、日本人だと思ったんでしょう、にっこり会 釈するとおもむろに「さくら」を弾き始めて・・・サーヴィスよかったんですもの。あとでテーブルをまわってきた店の人に、いやぁ、とっても美味しかったけど、胃腸の調子が悪くてたくさん食べられなくて、とても残念だ、なんて言い訳したりして・・・これが何人かで食べる中華だと気を使わなくていいんですけどね。私が食べなくても誰かが食べてくれるでしょうから。
また、小食で腹の立つこともあるんです。会費制の飲み放題、食べ放題、というパーティ。それに、バイキング。私の倍くらいを美味しそうに食べている人を尻目に、もうお腹一杯で気分が悪くなりながら、「なんで私とアンタが同じ金額なの?」と・・・・学生時代から、そういうコンパなどに行くたび、せこく矛盾感じてました(-.-)
でも、なんといっても、面倒なのは、食べるのに計算しなければいけないことですね。これはとても美味しいけど、次に大好きなデザートがくるから、これくらいでやめておこう、などといちいち計算しなくちゃならないなんて、無粋ですよね。あ〜、こう書いていても、なんだか胸が悪くなってきそうです。それではこのへんで。


アクセスカウンターのこと

このホームページを開設して一週間、見てくださった何人かに、「アクセスカウンターつけたら?」といわれたので、つけてみました(1998年08月15日付)。どうやったらいいのかわからないので、asahi-netに問い合わせたりして、試行錯誤、なんとか形になりました。なにしろ私は、「HTML文章ではタグは全て < > で挟まれます」なんていわれても、「へ?タグって何さ?」という人なので・・・(~_~;)
なんか、恥ずかしかったんですけどね、カウンターつけるの。だって、そんな、数える価値があるほどのモンかなって。でも、はげみになるって、いわれたんです。まあ、それもそうかな、と。
で、やっとつけたはいいけど、そうなると数字がないのは寂しい。自分でアクセスして、10回ぐらい数字上げときました(^^) 「これ、まがりなりにも頑張ってる自分へのご褒美ね」とか思いながら。何のためにカウンターつけたのかわからないけど、ほら、ネットサーフィンしてるとき、カウンターの数字見て、あまりにも少ないと、それ以上なかを見る気がなくなったりしませんか?友達にも手伝わせて、だいたい500ぐらいになるまでは、せっせと「サクラカウンティング」しようか、などと考えています(^^)
だから私のカウンター、今のところ、信用できません。
カウンターの数字なんかより、信じられるのは、やっぱりメール。人の言葉は、なんといっても嬉しいもの。これをご覧になったら、ぜひぜひ感想メールお寄せくださいね。
みなさんからの温かいお便り、心からお待ちしてまーす(^o^)/ ----- marineko@private.email.ne.jp


「ほんとうの空色」のこと(U)

「ほんとうの空色」について、二人の方から情報を寄せていただきました。
講談社の青い鳥文庫からでているそうです。でも、「講談社のHP<http://www.bookclub.kodansha.co.jp/>で、検索をかけても出てこないということは、もう廃刊になってしまったのかもしれません。紀伊国屋で通販の受付はやっているようなので、ひょっとしたら在庫はあるのかも。(shinkさん)」という話ですから、手に入れられるかどうか、また問い合わせてみようと思います。


自信がないということ

このまえ、コンタクトレンズを買い替えに行ったときの話です。そこの眼科の先生は若くて、わりとハンサムで、まだ30前かな、という感じなんですが、妙に偉そうなのが可笑しい人です。
先日行ったときには、診察しているとき、誤って私の下まぶたの内側を何かで突っついたんですが、このときは真剣に痛かったので、私も「痛!」って言ったんです。そしたら、「あ。痛かったかな」と言ったきり、謝りもしない。これには、少しむっとして、わざとまた「いたぁ〜(ーoー;)」と言ってみたんですが、反応なし。自分が誤ってしたことのくせに、なんで「すいません」の一言もないのかと腹が立ちました。こんな医者、初めてです。一体、あんた何様のつもりよ、と思いました。
以前、お世話になっていた内科の先生が「このごろの若い奴は、格好つけるだけが一人前」などと言っていらしたので、「まぁ、いつの時代にも、年長の者は若い者を見ればそう言うんだろうな」と思っていましたが、こんな目に会うと、なにやらリアリティが。
なんで一言の詫びもいえないのかというと、やはり自信がないからなんでしょうね。格好をつけていないと、医者ではなくなってしまうからなんでしょう。きちんと、やるべきことをやっていたら、それらしく格好つけて偉そうにしなくても、職業上の敬意が得られるものなんですが、自分がそれだけのことをやっている、という自信がないんでしょう。
自信がない点では、それを隠す行動をしてしまうものなんですね。男性はステイタス。ステイタスに自信がないと、男の人はやたら何かを自慢します。それは情報量だったり、知り合いの著名人だったり。女性はというと、容姿に自信がなければ、化粧や服装が派手になったり。村上春樹の「ノルウェイの森」を読んだとき、確か、ミドリのせりふだったと思うんですが、「お金持ちだと、お金がないとはっきりいえる。だけど貧乏だと、お金がないって口にだせない」というようなくだりがありました。そのとき私はまだ22,3で、「そんなものかな」と思っただけですが、今ではそれって、真実かもしれないと感じますね。
自分の芯みたいなものに自信があると、非を認めれば素直に謝れるし、人の過ちにもに寛大になれる。人の敬意を得ようと偉そうにしなくなるし、お金がなければないともいえる。なによりも、「自分に自信なんかないよ。ごく普通の人間だよ」って、穏やかに言えるんじゃないかしら。そんな気がしますね。
私は何だろうって考えちゃいます。私自身は、何がないって口にだせないのかなって・・・・こっそりそんなこと考えてみました。


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