アリゾナ・ダイアリー 2005

May
3 / 4 / 6 / 7 / 9 / 10 / 17 / 18 / 19 / 20 / 21 / 24 / 25 / 26 / 28 / 29


05/05/03

こちらに越してきて、ちょうど二ヶ月が過ぎてしまいました。
あっという間だったか、思いのほか長かったか・・・なんか無我夢中でしたね。
生活に必要な有形無形のモノを手に入れ、暮らしのパターンがだいたい決まってしまうまでは、長旅や気候の変化などで身体も疲れているうえに、あれこれとしなければならないことが山積みですから、そりゃーつらかったです。まあ、今では完璧ではないけれど、そのあたりはだいぶクリアされてきましたから、「必死のサバイバル→日常生活」という感じになりました。

あーしかし今日も30℃超えて暑い・・・
夜は涼しいんですけどね、寝るときはクーラーいらないし薄い掛け布団も使ってるんですが、朝九時ごろから夕方五時ごろまではとにかく暑いです。日にもよりますが。もうずっと真夏の格好ですよね、靴下なんか暑くて履いてられるかって感じ。裸足にサンダル。だけど、買い物(とくに生鮮食料品売り場やフローズンフードコーナー)に行くなら長袖カーディガンとか羽織るものは必携。クーラー効きすぎて寒いんですよ。
日差しが強いので、日焼けしやすい人はすぐに焼けます。
夫なんか、手の甲と手のひらの色がもうすでに違ってる!
だから日焼け止めを塗らないと皮膚ガンになると脅してるのに。私は日差しの強いときはたいてい家にいるせいか、日焼け止めをばっちり塗っているからか、まだ白い肌のままです。面倒ですけどね、いちいち外出のたびに、顔は当然として、腕や足や首筋にまでローション塗って、またそれを洗い流さなきゃならないとなると。夫は、身体用の日焼け止めクリームを顔に塗ったら目にしみたというので、顔用のを買ってあげたのに、全然つかわない。「石鹸で洗い流すのが面倒」だと・・・
いや、私だって面倒ですよ、だけど、こっちの人の特にヒスパニックや白人系のおばさんたちの肌を見ると、もうシミだらけですごいんです。病気かと思うくらい。平気でノースリーブとか着てますけどね。日本じゃ許されないと思いますが。水とか食べ物とか、他にも要因はあるでしょうけど、それより日焼けのせいですよ、日焼け。

日本の婦女子には「美白」化粧品が大受けなのに、こっちのドラッグストアでははっきりと「美白!」「ビタミンC入り!」「透明感のある白い肌に!」とか謳っている化粧品はまだ見かけないですね。探してるんですが。
もしかしたら、デパートなどに入っているブランド化粧品のコーナーにはあるのかもしれません。でも、ドラッグストアなどでは日焼け止めはいろいろ売ってますが、「美白」ラインものはない。シワや乾燥やニキビ用の化粧品は売っているけれど。日本ならそれこそ各社こぞって美白ラインの商品を出してますよね。
んー、この土地柄だからこそ、アンチエイジングの意味でも美白モノは必要だと思うんだけどなー。やっぱり黒人とか、いろんな人種がいるので、肌の色に対する表現、「白い=美しい」という概念を植え付けるようなものはイケナイ、とか?ちょっと勘ぐったりしてます。
でもねー、白人の感覚では、「適度にむらなく焼けている肌」がナマっちろい肌よりも良かったりするんですよ。シミとかはもちろんNGですが、なんかこう健康的な小麦色に焼けてると、活発で外交的な性格に見えるし、自然派アウトドア志向だから、「うちは海や山でちゃんとバカンスを楽しむ余裕があるんですのよ」っていうような。
美的観点からも、ブロンドやブラウンヘアで目の色も青や薄茶色だと、適度に焼けてても暑苦しく重い感じにならないんですよね。これがラテン系の巻き毛がかった真っ黒ヘアで、黒々とした太眉にでかい黒目だと、見るからに「暑苦しい〜」って雰囲気ですが。日本人は日焼けしても中途半端で、とくにカッコいい感じにならないと思うので、私自身はできるだけ焼きたくないです。

ドラッグストアといえば、「こんなモンがなんでこんな値段?」と思う商品に、目薬があります。
私はコンタクトレンズ使用者なので、目が乾燥しやすいんですよ。一日に、数回は目薬さします。メントールとか余計な成分が入ってなくて、人工涙液というか、そういうの。要は生理的食塩水に少し防腐処理をしたもの、乾いた瞳とレンズをrewetするためのものです。もちろん、レンズ装着時に使います。
それが日本の薬局では、だいたい10〜13mlが3〜400円で売られてるのに、こっちではなんと$7〜8という高さ!それにtaxが8%つくんですから、ほとんど倍の値段!
なんで〜???
と、ぼやいていたら、夫の研究者仲間のアメリカ人いわく、「アメリカでは医療に関するものは何でも高いからだよ、車椅子だって高いんだから」と。
んー、そうかも。獣医さんだって高いし、保険も高いし。
でもなー、目薬多めにもってきたからまだ二、三ヶ月ぶんはあるけど、これが切れたら日本から送ってもらおうかな。送料かかっても、まだそのほうが安くなりそうな気配。それか、6月ごろに、またうちの両親とお姑さんが三人そろってアリゾナに来ると言っているから、そのとき持ってきてもらおうかな。目薬なんて、軽くてかさばらないから、そう負担にもならないでしょうしね。


05/05/04

日本から少し本なんかも持ってきたんですが、そのなかに、「愛はなぜ終わるのか/ヘレン・E・フィッシャー」という人類学モノがあって、それは私が'93年に買った本なんです。「生物学的に見れば、人間の愛は四年で終わるのが自然」というちょっとセンセーショナルな内容が話題になってたし、そのころ、フェミニズムとか家族や結婚などについて真面目に考えざるをえない状況があって、そっち系統の本をよく読んでたんですよ。
べつに私自身は今更こちらに持ってくるもののリストには入れてなかったんですが、夫が何を思ったか「僕、これ読んでない。面白いかも」と、荷物のなかに。
暇なつれづれに再びパラパラとページをめくってみると、データは多少古くなっているかもしれませんが、なかなかうなずける内容。この本が出て十年以上、私自身にも私をとりまく状況にもいろいろ波があって、それらを乗り越え一息ついている今、振り返るように読み返してみるとね。

女性が自立して生きられない社会では、男女とも「家」「子供」「慣習」にしばられて離婚率は低く、男女どちらも対等に自立できるようになると、愛が冷めたときにはあまり外的要因に縛られることなく離婚する。近代農耕社会が前者であったのだけれども、現代に至って、食べていくのに、必ずしも鋤や鍬(要するに肉体労働)をしなくてもよくなり、むしろ後者であった古代の狩猟採集社会(案外、男女は対等に協力しあっていた)のあり方に近づいている、というわけですね。
・・・なんか夫に読ませたいような、読ませたくないような内容ですな。
だって、うちの夫はしきりに「外に出て、人と交われ」というヒトでしょ、それには「必ずしもお金稼がなくてもいいけど、経済的に自立するということも考えてみてもいい、もちろん関心があればの話」というニュアンスも含まれてるわけですよ。そうそう、このまえ、車の免許のことからかな、「僕に頼りきりじゃなくて、もっと自立して動けるようにならんと」と言われたんですが、思わず、「あんた、ほんとうに私のことを信じきってるんやな」と。
「へ。それどういう意味」と、まあ、あまり深く追求もされずにすんだのが幸いですが。
もしかしたら、「私」を信じているというより、「自分の価値」を信じてるのかもしれないですね。

以前、家にあったワインオープナーがチャチな代物で使いづらかったので、夫が新しいのを買ってきたんですよ、そしたら力のない私でも、軽々と栓が開けられるじゃないですか。
「なっ、これええやろ。おまえでも簡単にワイン開けられるな♪」(夫)
「そうやな、これであんたの価値がひとつ減ったな♪」(私)
「・・・それどーゆう意味やねん、おまえは僕のことを『便利な道具』としか考えてへんのかっ!?」
「あー、いやー、そのー、冗談やん、冗談、あははは♪」
うーん、私ってひどいヤツと思うでしょ?いやぁ、自分でも鬼畜な発言と認めます。
だけどさー、ジャムの蓋もあけられない、電気系統の配線その他もぜんぜんわからない、車の運転もろくにできない、私がすでに知っている以上の知識も持ち合わせていない・・・すなわち、肉体的にも知的にも自分と同等かそれを下回るような男に、なんでご飯つくってあげたり、枕カバーや靴下あらってあげたりしなきゃなんないんですか。しかも、向こうの家族から「嫁」とか呼ばれてまで。
何にもできないし、馬鹿だけど、顔や身体が素敵でうっとり見とれちゃう男が可愛くてたまらないんなら、結婚なんかしないで、ただデートだけしてりゃいいんですよ。そんなの愛でもないし、ただの発情だから。気がすむまでイチャイチャしてたら、そのうちイヤになるので別れられる。

結婚ってもっとシビアなんですよね。まだまだ日本は農耕社会型ですよ。
男のヒトは「見ていて可愛い」「守ってやりたい」みたいな情緒的なところで結婚に踏み切るんですか?
私が、男って純だなぁ、可愛いなぁ、馬鹿だなぁ、と心から思うのはそういう性質がほの見えたとき。
私なんか、結婚したら今自分のものである資産は相手のものにもなるだろうし、もしも実家の両親が亡くなったとしたら私と弟で分配する遺産も、その後、私が先に死んだら、真っ先にコイツのものになるわけね、と思いますよ。で、それを相続するのにふさわしい男であるか、否か?ということを先回りして考えてしまう。
なぜってね、私自身がひとりで稼いだお金なら、私の勝手でしょ、と、つまんない男にいれあげても「まあ、しゃーないか、アイツがすっきなんだもんね〜♪」で済まされるけれど、親の遺産となるとなぁ・・・
何の強力なバックグラウンドももたない田舎出の四男坊の理系父が、大阪にでてきて就職したあとの紆余曲折、とくに起業してからはどれだけの戦いがあったか、私も見て育っているだけにね。私自身も成長するにつれ、多少なりともそこに参戦していたと言えるわけだし。
うちの夫は「おまえは何かというと、すぐ『パパが・ママが』や。このファザコン・マザコン・ファミコン」と、私を馬鹿にしますが、既存のシステムに雇用された(守られた)サラリーマンのお父さんが働いて、母親と子供は「パパ、お勤めご苦労さまです〜」という分業体制の家庭じゃなく、一から収入の元となるシステムを創りあげることは、弱肉強食社会の勝ち抜き戦にエントリーするという意味合いが大きく、生き残りを賭けた数々の戦いにファミリーのメンバーがそれぞれの役割を担うチームとして参戦していたわけで、やはり仲間意識は強くなるんですよ。

えーと、それで、なんでしたっけ?
馬鹿さが可愛い女(まるでマリリンモンローの演じるような)、あるいは生まれながら底辺に生きる無学層、そんな女でない限り、結婚を甘く考えてる女はないと思います。だって人生変わってしまいますもんね。たとえそれまで働いて自立している女でもね。
たとえば夫の転勤。ついていけば自分のキャリア(自立の経済的基盤)を捨てることに。だけど、離れて暮らせば、またそれなりに不都合が。たとえばお姑さんが倒れた。フルタイムケアが必要。ここでも、自分のキャリアをとるか否かの選択を迫られることに。べつに夫が面倒みたっていいんですよ、自分の親なんだし。だけど、夫の稼ぎのほうが多いとか、お互いの仕事の内容とか質とか将来性、果ては生き方の本質まで、いろいろと天秤にかけなきゃいけないことはあると思います。

結局、結婚というのはある種、契約なんですよ。いや、ハッキリと契約です。
それが愛の結果だとかいうのは違う。巷で愛といわれているのは、小田和正が「YES-NO」という本のなかで、うまいこと表現してましたが、「オンとオフを無数に繰り返す感情」のことなんですよ。そんなファジーなものの結果を契約に結びつけても、永続するはずがない。
だから、平等に自立して生きられる社会になれば離婚が増え、少子化が進むというフィッシャーの予言は当たっていたわけです。といっても、こんなの誰にでも予言できるようなことだったと思いますが。
今日では、離婚・再婚が増えたそのうえに、「結婚しない人たち」も増えた。
我々は、ますます進化の過程を逆さにたどっていってるんでしょうかね。動物は発情すれば交尾するだけで、「生涯をともに・・・」などという契約は交わしませんから。

「真実の愛を求め、俺たちは二次元に旅立った!」と叫ぶ人まで現れましたが、アニメ絵やら誰かがつくったキャラやストーリーに真実の愛があるとは思えない。二次元萌えというのは、きちんと消費社会の一翼を担っているというだけのこと(まあ、自分の脳内でオリジナルキャラをつくって萌えられる人は「例外=自己閉鎖型ナルシスト」ですが)。
ではどこに真実の愛があるか?
己の魂のなかにしかない、と思いますよ。私はね。
idealisticな言い方かもしれませんが、それはティファニーの指輪もワインもご馳走も消費しない、液晶モニタや紙やインクを消費するものでもない。三次元の、この身体を喜ばせる何ものにも関わらない、ただ彼岸の向こう側にあるものだと。それを一瞬でも垣間見るためには、輝かしく生きのびることより、実はその隣に常に存在するダークマターたる「死」を意識する、そのことによって、魂の淵をのぞきこむ体験なんかをするといいのかもしれません。
たぶん、すごくせつないですけどね、だって、私たちはやっぱり生身の人間ですから・・・


05/05/06

先日、新しい眼鏡つくったのが出来上がってきました。
眼鏡つくるのにも、コンタクトレンズと同じで、医者に見てもらわなきゃいけないんですよ、こっちでは。
私はほんとに視力が落ちてしまって、裸眼だと道を歩くの怖いくらい。普段はコンタクト入れてますが、前につくったのがちょっと度数きつくて、遠くを見るのにはいいけど、読書とかパソコンなど、近距離を見るのには適してなかったんですね。不必要に度がきついと、かえって目が疲れるんです。
で、去年、買い換えるとき、日本では車を運転するわけでもなし、インドアなライフスタイルに必要なのは、もっと弱い度数のレンズだと判断して、普通は1.0ぐらいに調整するところを、0.7ぐらいにしてもらったんです。家の中にいるぶんにはこれで充分なんですね。ところが、こっちでいよいよ車の免許を取る、ということになったでしょ(ほんとに運転できるか超不安)、そしたらアリゾナの運転免許試験場では、この視力じゃ運転はダメだといわれたんですよ。正確には、「昼しか運転してはいけない」って。なんか、「昼だけ」とかいう曖昧な許可が、アリゾナのアバウトというか大らかなところですが。

で、まあ自分でも不便だし、運転するときとか遠くを見る必要のあるときは、コンタクトのうえから眼鏡かけようと。そしたらレンズも薄くてすむし、第一、左右の度数が離れてる私は、眼鏡ではきちんと補正できないんです。ていうか、きっちり補正してしまうと、かなりきつくなってしまって、普段かけるのがつらい。
そういうことを眼鏡屋に行って、眼科の先生に話をして、新しい眼鏡つくってもらいました。うん、コンタクトと併用すると、見える見える。前にレンズつくったときも思いましたが、こっちではどうも、強めの度数で補正したがる傾向がありますね。やっぱ人はみな運転するものということが当然になっているからか、だだっ広い場所が多いからか・・・
ということで、今私は弱く補正したレンズと、レンズをなくしたり旅行など非常時用のもっと弱い度数の眼鏡、そして今度のニュー眼鏡と、みっつを駆使しています。ややこしいのですが、しかたありません。目のいい人が羨ましい。こちらではレーシック手術もさかんで安いですが、やはり目の中にメスを入れるなんて考えただけでも怖いし、失敗したらどうにもならないでしょ。絶対やる気ありませんね。

あー、しかし、ほんとに免許とれるのかな。っていうか、ほんとに運転するのかな(ためいき)。
昔、高校卒業と同時に早々と教習所に通って(私は運転することなんか頭の中になかったのに、親が「大学の授業が始まるまで春休みで暇でしょ、免許でも取りに行ったら」と勧めたもので)、「自分のようなトロイ人間が車を運転するなんて恐ろしいことだ」というトラウマが残りましたが、なんとか試験にパスして、以来、自分の車もないし、かたくなにペーパードライバーを通してきたんですよね。
どうせ使わないだろうと思いつつ、ずっと更新してきたのは、免許書って身分証明書として便利なんですよ。それだけ。こっちでも、SSNもってない私は運転免許書を携帯しておくと何かと便利・・・なことはわかってるんだけど、怖いよぅ〜。いや、道は広いし、道路はわかりやすいし、たいていは混んでないし、信号も少なく、歩行者や自転車などもまれにしかいないこの街なら、日本で運転するよりずっとラクなのはわかっているんだけど・・・ほんと、運転しててブレーキがきかなくなって焦ってる夢とか見るくらい、トラウマになってますからね。本音を言えば「やだなー。」のひとこと。でも、やらなくちゃ。あと何年か、こっちに住むつもりなんだもん・・・

んー、まずはペーパー試験にパスしなくちゃ。これも日本のよりずっと簡単。英語だけど、小難しいこと書いてないから、まあわかる。そのあとは、ドライビングスクールかな。夫に教えてもらうったって、無理だものね。
スクールといっても、そこの会社の人が車できて、マンツーマンで乗り方を教えてくれるんですよ。試験もやってくれて、パスすれば免許もらえるらしいです。
そうそう、免許とるのにITINが必要とか書いてるサイトもありますが、法律も変わったのか、アリゾナではパスポートとビザと入国のときパチンと留めてくれる白い紙、なんだっけ、あれを見せればOKですよ。試験費用はたったの7ドル。三回落っこちるとまた7ドルです。

しかし、ボーっとしてるからなぁ・・・私。一点集中タイプだから、あちこちに気を配らなきゃいけない車の運転って、苦手なんですよ。こっちに気を取られていたら、あっちがおろそかになるってタイプ。あー、サイドブレーキ引っ張ったままで外環状線を走ってた悪夢が今よみがえる。後ろの車がくっついてきてクラクション鳴らしてるー、何だろう、イヤだなー、と思ってたら、その車が追い越しざまウィンドウから、「あんた、サイドブレーキ引いたままやで!」。
あんときは顔から火が出るほど恥ずかしかったです。
それだけならまだいいけど、事故起こしたりしないだろうか、人をはねたり自分が怪我をしないだろうかと・・・浜の真砂は尽くるとも、運転恐怖の種は尽きまじ、って感じ。ふぅ。


05/05/07

ハロー、日本の皆様。ゴールデンウィークでリフレッシュできました?
私は今さっき、運転免許のペーパー試験に受かってきましたよん。いや、えらそうに言えるほど難しいモンじゃないんですけどね。これで仮免許ができましたから、あとは路上教習・・・ドライビングスクール探します。
涙がにじみ冷や汗たらたら、地獄の特訓になるのは今から覚悟しておかないと。あぅ・・・激鬱('A`)
でも、車運転できないと、それもまた鬱ですから。ったく運転免許ってやつぁ、取るも地獄、取らぬも地獄。
食料・日用品の買出しすら、どこそこのスーパーまで連れて行ってくれと夫にたのまなきゃいけない。
すでに、めちゃウザがられてるみたいだし。

「バス使えば?僕も仕事しなあかんし」

夫のもくろみは、私が運転免許をとったら、大学まで朝夕送り迎えさせて、それ以外の時間は、おまえが自由に車使えや、というもの。けど、いくら車があっても、何もかもが「デカイ」、「重い」、「かさばる」という三重苦の買出しを、平日の昼間、私ひとりにさせようなんて、鬼畜な考えやと思いますよ。アパートの駐車場から部屋まで、えっさほっさとアリのように何往復もしなきゃならないのはわかってるもの。

明日はこっちに住んでる日本人家族の皆様とBBQです。
大人+子供で約三十名、まあ、ちょっとした人数ですね。もちろん私は初顔合わせ。うまく人の輪の中に溶け込めると良いのですが。いや、悪目立ちしないよう、気をつけます。
BBQ+ポットラックパーティなので、みんなが一品ずつ何かサイドディッシュを持ち寄ることになってます。お肉系は、もう充分とみたので、私はおつまみ系の「グァカモレにトルティヤチップスと野菜スティック」を持っていくことにしました。

このグァカモレは、適度にトロッとしていて、チップスや野菜スティックにつけて食べるディップです。
こっちの共同研究者の奥様がメキシカン・アメリカンで、お料理上手な人なんですが、ずっと以前に、自宅でのBBQにおよばれしたとき、私は初めて、アボカドでつくった「グァカモレ」をいただいたわけなんです。あれがグァカモレ初体験。すごく美味しかったので、いまだに忘れられなくて。
材料だけ訊く機会があったので、あの味を再現するべく、試作してみました。そう、なんと、今の今まで作ったこともないのに「持っていく」と決めてしまっていた無謀者です。でも、なんとか再現に成功!!いやー、良かった良かった。これで失敗だったら、わざわざ出来合いのものを買って持っていかなきゃいけないところでした。
私は美味しいと思ってるんですが、他のみなさんの反応が気がかり・・・気に入ってもらえたらいいんですけどねぇ。

これから材料買いにいかなくちゃ。シンプルな味なので、素材選びが肝ですよ。


05/05/09

面白いことに、ちょっと気を緩めると、神様から「Be independent!!」と注意されているみたいです。
そうですね、自分が快適に生きていくためには、車の運転こわいとか、バスは嫌とか、英語の勉強面倒、とか言ってられないことを、出来事を通じて痛烈に思い知らされました。まあ、さっそく。
自分ではそんなつもりなくても、精神的には(現実的にも)夫に寄りかかっている部分がたくさんあったかもしれません。いや、あったんですよ、でも、それはもう限りなく縮小しなくては。事実上、まったくゼロにはできないけれど、せめて精神的な依存は限りなくゼロに近づける。心底そう思いました。といっても、億劫がりの私ですから、独立した行動にでるのは遅いかもしれませんが、試行錯誤しながら一歩一歩やっていくしかないです。自分もアリゾナに来ることを承諾した、というより、むしろ進んで後押ししたところもありますし。頑張ってこの試練を乗り越えれば、何か大きな見返りが待っていそうな感じもします。だからこそ、やってきたんじゃありませんか・・・

自分が居心地よいと思えるテリトリーを構築する。
やっぱり肝心なのは英語です。英語そのものを習いにいかなくても、市でやっている絵画教室とかに行けば、嫌でも英語を使わなければならない状態になるはず。まあ、せめて先生が言っていることが大まかに聞き取れるようになるまで、自分で努力してからの話ですが。
それから、知人友人コミュニティのたぐい。
独立は孤立ではないですから。夫とは別に、独自の交友関係をつくらなければ。彼にくっついていれば「芋づる式」、とはいかないですから。自分の力で掘り起こす気力をもたなければいけない。これも英語さえなんとかなれば、あとは何か関心の持てるコミュニティに参加するとか、行動に移すのみ。
不可能なことではないはず。使わないから忘れてしまったとはいえ、もっと今より流暢に英語を話していたことも過去あったわけだし、それを思い出せばいいだけ。そうすれば、上の目的には充分。そこまでいけば、またステップアップへの道が見つかるでしょう。
ただ、根性がへたるのを防ぐこと、粘りとか根気、これを継続させること、一番やっかいなのはこれ。まーいいか、ってラクな方へ流れていきそうになるのを、なんとか食い止める。
いまのままでも、生きていくだけならできますからね。だけど、快適でもなければ、さほど幸福でもない。

「メメント・モリ」
もう若くないとうそぶいても、さらにこれからも失われつづける若さ。
体力がなくなったと嘆いても、いまあるそれをどれだけ長く保ちつづけられるかすらわからない。
今日は確かに生きている、でも明日その命が失われないという保証はない。
だからこそ、「今」を充実させなければ、待っているのは後悔のみ・・・
そうなりたくないからこそ、アメリカに来たんじゃないですか。
とりあえず、バスにのって、ひとりでアリゾナ・ミルズ・モールにでも行ってみるかな。
簡単にできること、そして楽しいことから始めよう。自己改革は、やっぱり自分のペースで。
深呼吸して、落ち着いて。萎縮しない、焦らない、もっと大胆なオプティミストになる。
エスコートしてもらうことに慣れてしまい、自分で泳ぐ力と楽しさを忘れてしまっていたけれど。
そっと足を下ろして。つま先から水につけて。底が見えなくても、案外、河はそう深くないかもしれない。
ルビコンを渡ろう。
ルビコンを渡ろう。
そして・・・


05/05/10

買い物に行ってホームデコのコーナーがあると、必ずそこで絵を見るんですよね。
あれこれ見て回ったので、けっこう目が肥えたかもしれない。
だけど、私が日本の家具屋さんで十年以上も前に買ったボタニカルアートの薔薇の額、赤い一重の薔薇と白い八重の薔薇のペア、あれに勝るものはまだ見つからず。
そこそこ気に入るものならどこにでも置いてあるけれど、「これこれ!これなのよ!」という興奮はなし。
「この絵は私に買われるために、ここにあったのだわ。これは運命の出会いよ!」
というような確信に満ちた満足感がない。
とりあえず白々した部屋を飾りたいので、「この値段でこの美しさなら、まあまあお買い得」と納得できるものは何枚か買いましたけど、危急の飢えをしのいだら、次からは本当に美味しいものを食べたくなるのが人間のサガ。
値段とかは関係ないですね、高くてもちっとも好きになれない絵もあるし、ガレージセールで買った小さな額が案外気に入ることもある。人に見せるためもあるけれど、うちなんか来客ったってそうそうないし、基本的には自分が心底満足できるものがベストですよ。毎日そこにあるんだから。
ここに来て、あの二枚の額がいっそう貴重なものに見えてきました。だって、心から好きだものね。問答無用だからね。

人間同士でもありますよね、もう、会った瞬間から意気投合、あるいはその存在が気になって仕方ない、星の数ほどいる人のなかで、どうして?みたいな。ありませんか?
理屈なんかない。少なくとも、自分では見つけられない。気がついたら、気持ちがそうなってる。
絶対評価だから、誰と比べる必要も感じない。
「この前に会ったAさんよりは素敵みたい」
そんな足し算引き算の入り込む余地なんかない、そもそも計算しようという気すら起こらない。
こういうのを私は運命と呼ぶし、人生のなかでそんな出会いなんか男女あわせて三、四人もいたらいいほうじゃないかと思います。
多くの出会いというのは、相対評価ですね。
「なんだ、これだったら、あの人のほうが全然マシじゃない。見直しちゃった」
「えーっ、こんな人もいたんだわ、あんなヤツのこと凄いと思ってたなんて、どうかしてたなぁ」
こういうのは、また新たな出会いによって、自分のなかでの評価が覆ったりします。相対ですから。常に誰かと比べることによって、評価が成り立っている。
考え方にもよるけれど、私自身は「絶対>越え難い壁>相対」という感じで、序列をつけてます。

薔薇よ薔薇たち、おまえたちは初めから私のお気に入り、そして今でもお気に入り。
そういう出会いだったんだね。当たり前のようにそこにあったので、考えてみたこともなかったけれど。
買って帰って、飾ってみたときの満ちたりた幸福感を思い出したよ。
手放すことなんか考えられない、考えもしない。
こんなふうに出会った人に限って、向こうも多少は同じように思っているに違いないと根拠のない確信をもっている、自分の気持ちだって目をみれば伝わるだろうなんて思っている、たいていの場合、それはほんとうのことなので、だからわざわざ言葉にしない、あなたは私にとって絶対評価な存在であると。
嫌いになることなんかない、そんなこと考えもしないだろう、と。
なぜといって、その人の顔や姿や声や優しさや賢さが他者から抜きん出ているがゆえに捉えられたのでなく、心の弱さも邪な感情もすべてを包括するその魂の個性ゆえに、しっかりと捕捉されたのだから。
けれど私たちは三次元世界に堕ちた者、哀しいかな知恵の木の実を食べたが最後、猜疑心の芽を摘み取ることができない。時の流れがそこへアクセルを踏む。

きみ、疑うことなかれ、自分を。
世界の何を、誰を疑っても良し、けれども、絶対評価した瞬間のスパークのまぶしさ、爽快に広がっていく解放感、地の底へと深く伸びていく安らぎ、そのエキサイティングな実感を、はかない夢だと嗤ってはいけない。
それがゆるぎなくたしかなことと信じられる、これほどまでに幸福なことがほかにあるか。

♪きみにまだ 言葉にして つたえてないことがあるんだ
  それはずっと 出会った日から きみを愛しているということ
                     (たしかなこと/小田和正)


05/05/17

この一週間、いろんなことがありました。
まずは、運転免許をとるための路上教習を始めたこと。
先週はじめに一念発起して、探したんですよ、ドライビングスクールを。英語で電話かけてあれこれ訊いたり訊かれたり、アポとったり、もー、すごい面倒!と思ってたんですが、仕方ない。
まずはネットでスクール探し。こちらでは、インストラクターが助手席にもブレーキ付いた車で家まで来てくれるんです。日本の教習所のサーキットみたいなの、ああいうのはないです。インストラクターが練習に適当な空き地(こっちにはいくらでもあります)まで連れて行ってくれて、基本的なことから教えてくれます。
縦列駐車、カーブの曲がり方、右折、左折、車線変更・・・いろいろ。
でも、そのスクール探しが早くも難航。ネット検索じゃわからないことだらけ!!無駄な努力をいくらか続けてましたが、けっきょくオフィスのおねーさんにイエローページを見てもらい、いくつか電話した末、やっと探し当てることができました。

私が申し込んだのは、六時間で$249です。三時間×二回。これで免許とれるんですか、ほんとに?みたいな感じですが、次の予約を入れるまでに、いくつかのポイントを練習しろと言われました。私、車動かすだけならいいんですが、実際の路上で車線変更したり左折するのが苦手なんですよね。要するにミラーとかこまめにチェックして、車や人の動きを見て、自分で判断しなきゃならないコト。
「えっ、行ってもいいの?それとも待たなきゃいけない?あー、わかんないっ!」みたいな。
制限速度が遅くて、あまり誰も走っていない住宅地ならいいんですけど、大通りにでると、時速45マイルで車がびゅんびゅん走ってますから。人やバイクなんかまれにしか見かけないし、信号なんてのも日本みたいにチョコチョコついてなくて、走りやすいんですが、なにしろ私、慣れないものですから。
もうかなり、 必 死 で す。
運転慣れてる人なら教習なんか受けなくても、ちょっと自分で左ハンドルの感覚に馴染んだらすぐに免許とれると思いますよ。アリゾナのテストの基準は甘いし。カリフォルニアはもう少し難しいけど。うちの夫がインストラクター雇ったときは、一時間いくらって感じでしたね。二時間で約七千円ぐらいの教習を三、四回受けたのかな?2000年当時の話ですから、いまでは値段とかいろいろ変わってるかもしれません。

もう仮免はあるので、一回目の路上教習まで、二日間、夫についてもらって練習しましたよ。なにしろ最初は「えーと。どうやってウィンカー出すの?」って状態でしたから。そんなだから、運転、ほんとに怖かったけど、恐怖心よりも「やらなきゃ!」という気持ちが上回ったんですよね。嫌がって延ばし延ばしにしてきたのを、急にやる気になったのは「このままじゃ嫌だ!」という強い現状否定の気持ち。
己の人生の時間を無駄にすることの恐怖が、路上教習の恐怖を上回った時点で、火事場の馬鹿力が出た、というか。追い詰められなきゃ、やりたくないことはやらないですもんね、とくに私。
車の運転ができれば、誰かを当てにしなくても、やれることがたくさんあるかもしれない。もっとアリゾナに馴染めるかもしれない。もっとアメリカに馴染めるかもしれない。そこで見えてくるものがあるかもしれない、知らない人とのつながりが、できてくるかもしれない。それでなくちゃ、せっかくここまで来た意味がない。
電話が苦手、車の運転こわい、そんなことでいつまでもオドオドビクビクしてちゃいけない。一人暮らしできるぐらい、自立心を養わなきゃいけない。それが私の当面の目標。その彼方に、現在は顕在化していない真の願望というか、たどりつくべき新境地が、きっとあると思うのですが。

で、インストラクターのオジサンは巨デブでサングラスのコワソーな方でしたが、三時間、みっちり教えてくれて、そのあいだずっと英語ですから、英会話のちょっとしたレッスンにもなったし、案外、根はいい人そうで、緊張はしたけれど、自信もつきました。いけないことはいけないと指摘されるけれど、けっこう誉めて育てるというかね、アメリカ人の教育とか態度ってそうですね。ちょっとしたことでもGreat!Perfect!とか言って、何を大袈裟なと思うけれど、リラックスするんですよね、お互いに。うちとけるというか。
また10日ぐらいみっちり自分(with夫)で練習して、もっと弱点を補強してからまたアポとりたいと思います。
頑張れ、自分!!

さて、話題かわって、週末はカリフォルニアのサンノゼに行ってました。
リバモア暮らしをしているとき、知り合ったアメリカ人ご夫婦を訪ねて。5年ぶりの再会です。帰国してからも、テロがあったりして、ごくたまにメールのやりとりをしていたのですが、今度アリゾナに数年はいることになったと言うと、じゃあさっそく会いましょう!ということに。主に私と向こうの奥様とのあいだで、話が具体化していったんですが、まあ子供もなく生活にも住居にも余裕があるので、彼らの家のゲストルームに泊めていただくことになりました。
二人とも大学院を出ていて、知識もあれば他人に対する配慮もあり、頭の回転も速くて想像力も豊かな面白い人たちです。理系夫婦だからか、アウトドア志向だからか、私とは雰囲気も性格も違うし、芸術に対する好みもまるで違いますが、なぜか一緒にいて気持ちのいい人たちです。きっと、異質なものに対する偏見が少なく、思慮深いせいでしょう。
「こっちに来て泊まればいいわよ」
という言葉を真に受けて、ほんとうに金曜と土曜の二日間、泊まらせていただきました。ショートホームステイですね。土曜日、一緒に懐かしのリバモアにも行きました。五年の歳月は、やはり環境を変えてしまってましたね。アパートは少し古びた感じになり、植え込みは大きくなり、木々は高く成長し、街のあちこちに新しい店ができ・・・なんだか複雑な気持ちでした。

いやー、不安だったけどなんとかなるだろうと思っていたのは、ずーっと英語でしょ、さすがに疲れたりしないかなーって。お互いに。向こうもそう思っていたみたいで、
「あなたたちにとっては、ずーっと英語を話さなきゃならないことになるから、ちょっと心配だったの」と。
でも、けっきょく、なんとかなりますね。話しているうちに、私も英語の単語とか言い回しを思い出すし、何がいいたいのか自分でも上手く言葉を組み立てられないことはしょっちゅうですが、相手が思慮深く頭のいい人だと、だいたいの見当をつけてくれるので、話すのがラクです。そのうえ、はやく上手になれます。
話を聞こうという態度や気持ちがない相手だと、たとえ日本人相手で日本語で話しても、何も意味のあることは伝えられません。でも、お互いに、わかりあおう、という気持ちがベースにあると、相手が何人であろうと何語で話そうと、正確なニュアンスやディテールは無理かもしれないけれど、一番言いたいことにポイントを絞ったコミュニケーションは成り立ちます。
やっぱり人種じゃないし、言語でもないよなー、人間関係って、つまるところは「相手とどれだけわかりあおうと思っているか」ということがすべてだなぁと。改めて思いましたよ。
同じように限られた人生の時間を一瞬でも共にするのならば、こういう人たちと私は過ごしたいですね。知的興奮と芯からのリラックスが得られるし、交流すること自体に面白さと、なんらかの哲学的「気づき」があります。

うちの夫は来るもの拒まず誰とでもレベルに応じたつきあい、というのが「人付き合い」だと主張しますし、私にもそういうふうに考えて欲しいと言いますが、私はなかなかそんなふうに思えません。フリだけなら出来ますが。私としては、「つきあう相手は厳選。つまらない思いを我慢しなきゃならないような(利害関係のない)人と交流するなら、本でも読んでるほうがずっと、人生の時間を正しく消費している感じがする」わけです。
私には友人が少ないと嘆いている人の神経がわかりません。真の友なんか少なくても充分。というかそれであたりまえ。時間とエネルギーは限られています。パーティで百人と話しても、あとで印象に残るのは二人か三人でしょう。波長が合わなかった残りの人々は、忘れ去られていくのみ。
お金にもならないのに、無理やり自分につまらない思いをさせることはないではありませんか。人生一度きり。明日のことはわからないと思えば、「正直、めんどくさ・・・」と思いながら多くの「友人」と順繰りにつきあうより、最高に面白い本でも読んでいたほうが百倍マシです。
これはもうこのサイトで何度も言及してることですけどね。私はそんなことを孤独だとは思いません。むしろ、つまらないと思いながら誰かと交流しなければならない環境に生きているのなら、そのほうが孤独です。

私はどうやら変わろうとしているようです。
卵から孵る雛は、自分の嘴で殻を破って出てきます。まだ固い殻のなかで永遠に夢うつつでいたかったのに、窮屈で仕方がなくなって出てきたのか、それとも、誕生が祝福される意味を見出したからこそ、自ら殻をつつき始めたのか。
サンノゼのホームステイ中、私は夢を見ました。
中学のとき好きだった男の子が出てきて、稼業を継ぐ事になったと言うんです。喜んでいる様子はなくて、複雑な顔つき。稼業とは旅回りの一座で、彼が座長になるということでしょうか。私は、自分が結婚していて、いま妊娠二ヶ月なのだと言います。そのあと客席に座って舞台を見ています。彼がこちらを見て、目が合います。私はなんだか少し寂しくなり、そこで夢は途切れます。
なかなかわかりやすい夢じゃないですか。
ほら、書いてたでしょう?女が昔の彼氏と今の彼氏を比べるみたいに、リバモアとテンピを比べてしまうって。そして、私のなかでは、以前のリバモア暮らしのほうが、ずっとずっと輝いてたんですよ。
確かにカリフォルニアの環境はいいです。でも、年月を経て再会してみれば、好きだった街はもう別の顔。
あの頃の、のんびりした田舎町っていう感じは薄れつつあります。リバモアは、もはや「通り過ぎた街」、私自身がそこでは「旅回りの一座」であり、なおかつ「旅回りの一座」を見ていた観客でもあったのです。
このアリゾナに来て二ヶ月と少し。妊娠二ヶ月というのは、この街に引っ越して来てから、自分の中で何かこれまでとは違う異質なものが育ちつつある、ということの象徴でしょう。妊娠・出産は女の大事業。妊娠中の母体を維持するのは大変ですが、出産は本質的に祝福されるべきもの。私がいま何を孕んでいて、将来何を産み落とすのかはわかりませんが、長い時をかけたその結果は、必ず私個人にとって祝福されるべきものであるはず。夢は、そういうことを告げていたのではないでしょうか。私は自分の直感を信じます。God bless me!


05/05/18

サンノゼ滞在中、アメリカ人夫妻に「日本ではNEETと呼ばれる若者が増えて問題になっている」と言ったら、NEETという言葉自体知らなかったし、「へえー、ほんとに」という反応でした。
私もそれがNot in Employment, Education or Training の略で、イギリスから輸入された言葉だということは知りませんでした。

自立しようと思うとき、「自分の食い扶持を稼ぐ」ということは嫌でも考えなくちゃいけないのですが、わかっちゃいるけどそれが上手くいかない、恋愛偏差値が低くて30超えても経験ナシな人がいるように、労働偏差値が低く、いい年をして「稼ぐ」ということができない、そんな人も多かろうと思います。
まー、そのなかの一人が私、という言い方もできます。
普通、自然界では親が子に餌のとり方を教え、だんだん身体が育って一人前になったら、巣から追い出すものなんですが、人間の親はそうしない場合がままあって、子をスポイルしてしまうんですよね。だから、私のような社会不適格者が生まれる、と。
思えば親の反対を押し切って、学生時代、アルバイトとかどんどんやってみるべきでした。まだあの頃は日本が上昇気流に乗っていて、学生であっても働く気さえあれば、職がないなんてことはなかったんですよね。だけど、元来怠け者で「働くこと」に対するイメージを欠落させたまま育ってきた私は、籠のなかの鳥のように生きて、しかもそのことに気づきもしなかったわけです。お金に執着なかったんですよ。
「夏休みにアルバイトでもしようかなー」
「なんのために?」
「んー・・・みんなやってるしぃー」
「ダメダメ。アルバイトなんかしたら、アンタ、悪いこと覚えてくるかもしれんから。買いたいものがあればいいなさい。それが必要なものならお金出してあげるから」
「・・・・」
こんな感じでした。高校生の頃ね。なんか、私がヘンな男に引っかかるとか、タバコやお酒の味を覚えるとか、派手な遊びをするようになるとか、そんなこと心配してたみたいですね。私、信用されてなかったんですよ。
親に言いくるめられて、自分自身も面接とかめんどくさいし怖いし、まあいいか、で過ごしてきたら、すっかり生活能力に欠ける人間になっちゃってたんです。

うちの両親は結婚したばかりの頃は貧乏で、脱サラしてお金に余裕ができてからは、「貧乏やら、つらい労働は、自分の子供にだけは味合わせたくない」と思っていたそうで、でも、ほんとのとこ、それは私に対してだけ、弟には厳しかったです。男の子だから。
「おまえはうちの跡取りなんだから、しっかりしてもらわんと」
よくそう言ってました。ダブルスタンダードの変わった親です。
私がもう学生でなくなって、中国留学から帰国して職探しをしながらブラブラしてたとき、とりあえずアルバイトに行くことにしたんですね、で、初めはもの珍しさと新しいことが覚えられるからと張り切ってた私なんですが、一ヶ月もたつ頃にはすっかり嫌気がさしてきて。やっぱりこんな人生の切り売りは嫌なもんだなぁと。それに、私よりずっと年下の子から偉そうな態度であれこれ言われるのもけっこうストレスでした。「はい」「そうですね」とニコニコ従順を装っていたけれど、「けっ。たかが時給800円で」という感情が、どこか雰囲気にでてたかもしれません。(時給800円以下でバイトしてる方には失礼な言い草ですみません。当時の気持ちを正直に書けばこうなってしまうだけで、他意はないです)
家に帰って「あー疲れた。つまらん。もー辞めたくなってきた」と愚痴をこぼすでしょ、そうしたら、
「どんな仕事やってんねん。ふーん。それで時給いくら?800円?なーんや、たかだかそんだけのために・・・辞めっちまえ、そんなん」
「え・・・んじゃ、辞めよーかなぁ・・・」
「ああ、辞めっちまえ、辞めっちまえ」

なんかおかしいでしょ。いや、普通さぁ、「まだ一ヶ月やろ、そんなことじゃ生きていかれへんがな。みんな嫌なこといっぱいあってもお仕事してるんやから。もういい大人やのに、我慢できんでどうする」とかなんとか励ますとか叱るとかするでしょ。親なら。
「辞めっちまえ」
「そうしようかな」
っていう流れにはならんでしょ。少なくとも。
うちの親、やっぱ変わってるよなぁと思いつつ、けっきょく辞めてしまった私も私ですが。
これが弟なら、留学なんかもってのほか、アルバイト?何を甘えてんのや、ちゃんとした仕事探せ、もう一人前の男やろ・・・ということになったに違いありません。
それが私のこととなると、
「おまえ一人ぐらい家にいても経済的には何も困らん。むしろ家事手伝うなりして親孝行しろ」
こうですから。これって今で言うNEETのはしりじゃないですか。
だけどいつまでもパラサイトしてるわけにはいかないですよ。なんか時代がせっつくんですよね。
毎年クリスマスソングとともに「若者なら親元でケーキなんか食うな。恋愛しろ。恋人と二人でクリスマスを祝え」とメディアがこぞってせっつくように、働かざるもの食うべからず、すべての若者は男女かかわらず自立すべし、ひきこもりは恥、パラサイトは悪、そんなふうな風潮になると。
そこで自立できるだけの稼ぎが得られる職をみつけられなかったら結婚ですよ、女はね。

太宰治の後期作品で「斜陽」という没落貴族を描いた作品がありますが、私はこの中に出てくる直治というキャラクターにけっこうシンパシー感じます。かず子の気持ちはちょっと理解できませんが。姉にお金を無心したり、お金もないくせに放蕩三昧の日々を送ったり、初めは「箸にも棒にもかからんヤツ」と軽蔑していましたが、自殺したあと姉のかず子に遺した手紙で、ストンと腑に落ちたというか。うんうん、そうか、わかる、わかるよ、あんたのそのつらさ。もう死ぬしかなかったよね、みたいな。
私は貴族ではないし、生家がお金に困っているわけでもないですが、世の中にはどうしても社会経済の歯車からはじき出されてしまう者がいるんです。そういえば「無能の人」という映画もありましたが、私にはあの映画は退屈でなんとなく苛立ち、主人公は軽蔑の対象でしかなかった。そして最近になって太宰の「人間失格」を読んでも、「いやーほんとにクズなヤツやな。マジ、人間失格。女まで道連れにせんと一人で死ね、この役立たず」と思ってしまうわけなんですが、それはたぶん近親憎悪というものでしょう。自分の一番ダメな部分をめいっぱい拡大してみているようで、どうにも後味が悪い。

30すぎても恋愛偏差値の低い「彼(女)いない歴=年齢」みたいな人が、
「うそー、彼氏(彼女)いないの?いると思ってたー。仕事も忙しそうだし、出会いのチャンス逃してるんだよ、きっと。でも、学生時代とかは付き合ったりした人いたんでしょ?」
という、なんてことないセリフに、時には傷ついてしまうように、労働偏差値の低い私のような人間は、

「せめて美味いもんちゃんとつくってぇな、あんた、なんにもしてへんのやから

「買い物ぐらい行けよ、パソコンで遊んでばかりおらんと

という、扶養者であり戸籍筆頭者である夫のセリフにムカッとしながらも、そのたびその「ムカッ」を己のためのジャンピングボードへと昇華させつつ、なんとか真人間になるための道を手探りで探し行くしかないのです。
せめて運転できるようになりたい。
せめて、自分ひとりで2ブロック先のグロッサリーストアまで行って買い物できるようになりたい。
そこからすべての道が始まる。きっと茨の道なんだろうけど、それを行くしかないのです。なぜって、直治のように惨めったらしい生と死は、なんといっても嫌でしょう。
「ちくしょう、ちくしょう」と世の中全部に歯軋りしたとしても、だけど、まだ仮免しかない私は、

「今度の土日、どっちか一日でいいから運転の練習したいんやけど、あんた、いいかな?」

と下手に出るしかないのです。今はね。
やりたいことがあるからと必死になれる人は、幸福の極致にいるといっていいでしょう。
しかし、現状が嫌すぎるから、必死に足掻かねばならない者もいるのです。
いまの自分の位置が不満なら、自分自身が自分を納得のいく場所へとひっぱりあげるしかない。
恋愛でも、仕事でも、なんでも同じです。


05/05/19

なんか、このダイアリーでは夫ばかりがひどいヤツのように描かれていると、夫自身からクレームが来るんですが、まー、そもそも上の件だって、私が料理を手抜きしたり、朝食のパンを買い忘れていたり、ということがあるんで、何の根拠もなく夫が偉そうに威張っているわけではないのです。彼の名誉のためにフォローしておきますが。私と結婚していなかったら、こんなサイトにああだこうだネタにして書かれることもないわけですし、この結婚でもっともダメージを被っている者は夫である、と言うこともできます。
それに、私の性格からして、甘甘な優しい夫ではダメなんですよ。
私がこれまでの人生で「やりたい」「やらねば」と思いながら、やってこなかったただひとつのこと、それは現実という大地に自らが自らを支えることのできる立脚点を据えること、自主独立の旗をゆるぎない楔のように固い岩盤に突き立てることなのです。残りの人生、ただこのことが成就できれば成功だと思っています。その他の願望やもろもろは、今のところ、二番目以降に回してもいいことなのです。というより、一番大事なことが成就すれば、あとの願望へとつづく扉は、勝手に開かれていくのではないかという気がします。

私の夫選びはそういう観点からなされたわけで、
「今日は運転の練習どう?気乗りしない?じゃ、またにしよっか。べつに君が焦って免許とることないよ、僕がどこへでも連れてってあげるからね♪」
みたいなことは、今の生活の中では期待しちゃならないと、よくわかっています。
気配り上手の優しい男性は、一緒にいてすごい気持ちいいし、ほんとはそういう男性とイチャイチャ甘甘な結婚生活を送りたかったかもしれないんですが、それって私を骨ごとスポイルしてしまって、結果的には「あなたがいないと生きていけない状態」にしてしまう。残念ながら、私には根性とか克己心が足りないので、男性に甘えて生きることに何の罪悪感もないんです。

少しも罪悪感がないので、甘やかされていることにも気づかない。
電球がきれたら買いに行ってくれる、お腹がすいたら食べさせてくれる、嫌なもの怖いことは遠ざけてくれる、そして自分はなんのためらいもなくその労力や思いやりを受け取って、「ありがとう、嬉しい♪」とにっこりニコニコ笑っていれば、それで少なくとも私の人生は、ハッピーに流れていく・・・
でも、人はみな究極的には独りです。甘やかしてくれていた相手が病気になったり、事故で突然死んでしまったりしたらどうしましょう。
それでもなんとか生きていかなきゃいけない。目の前のシリアスな問題や深い哀しみを乗り越えなきゃいけない。それまで甘甘ハッピーでスポイルされてきたら、重く立ちふさがる現実を見つめて、何もできない無能な自分に愕然とし、身の不幸を呪いながらさめざめと泣くしかないではありませんか。
まあ、そんな深刻なことまで考えなくても、私には現実的に困っている友人ひとり助ける力もない。お互い心からの信頼で繋がっている友人が目の前で困っているとしても、何をどうしてあげられるでもなく、これまた一緒になってさめざめと泣くしかない。
無力であることは、実に哀しいことです。

だから。
小田和正の歌じゃないけど、人生のなかで「涙に震えながら戦うべきときがある」わけです。
この社会の岩盤のうえに、己のゆるぎない立ち位置を、己の手で確保しなきゃいけない。それを守らなきゃいけない。どうしても。
でなければ、真実の達成感とか幸福感は得られないのではあるまいか・・・
少なくとも私はそうしたいし、そうすべきであると、これまでの人生のある地点において、それこそ「涙に震えながら」、決定的に確信したわけです。
無力であることは、哀しいこと。それだけでなく、真の自由もないということ。
ついつい忘れてしまいますけどね、日々の生活のなかでは。
情けないことに、私には根性とか克己心が不足してるので、何も問題が起こらないと、すぐに脳内お花畑のファンタジー世界へふわふわ漂い始めてしまう。そのうちに時間だけが過ぎていく。
夫はストッパー役なんですよ。心地よい世界から、私を冷酷な現実に引きずり戻す。そのたび、
「めっちゃむかつく!」
「こいつ、死ね!」
「打倒、夫!」
と瞬間的にカッとするわけですが、その感情をジャンピングボードへと昇華することで、現実的には私の身体にエンジンがかかるんだから、それはそれでいいんですよ。感情は大いに反発しても、大局的にみれば、ありがたい存在と言えるでしょう。

ふたりイチャイチャ、ムフー(*´∀`)σ)∀`) し・あ・わ・せ♪
それはそれで、うらやましいけっこうなんですけど、私の場合、ダメな自分を変えていくための起爆剤にはならないんですよね。
変えなくてもいいじゃない?なぜそんなに頑張るの?無理しなくてもいいんじゃない?
そう思う人は、私がどれほど強欲な女か知らないからですよ。
金銭には強欲ではないけれど、自分の心を芯から満たす幸福というものに対して、私はものすごく強欲です。そして、粘着でもある。ただ、そこへ向かっていくエネルギーを上手く燃やしつづけられないので、「打倒、夫!」と心で叫びつつ、勝手に彼を自分のジャンピングボードにしているだけです。
まあ、私と夫、どっちがひどいヤツか、このダイアリーをつづけてお読みになれば、おいおいわかってくると思いますが。っていうより、もうばれてる人にはばれてると思いますが。

ゆうべ、また印象的な夢を見ました。
私は学生で、教室にいます。数学のテストが返ってきて、79点でした。そんなに悪くないけど、まあまあってとこだなーと思っていたら、一人のクラスメイト、女の子ですが、私に面と向かって言うんです。
「どうして実力を出し惜しみするの?あなた、もっと点数をとれるはずでしょ?」
私はうろたえて、そういえばテスト前に風邪をひいて何日か休んだし・・・とか脳内で言い訳しながらあたりを見ると、数人のクラスメイトが私の周りに集まっています。その中に、知っている顔がありました。もともとネット上で知り合ったのですが、リアルで一度、会ったこともある人です。私は驚いて彼を見上げます。どうして彼がここにいるんだろう?と思ったとき、夢から覚めます。
ネット上で知った人ですから、私には、彼が今も不定期に書いている短い文から近況をぼんやりと知ることができます。大変な努力家で、わがままにも見えるほど自分の道を追求している彼、我の強さと芯の繊細さがうかがえる文章を書くのですが、恐らくもう二度と会うことがない人です。先へ先へと駆けていって、もう私などには手の届かない場所にいる人になってしまいました。ただ、私がときたまネット上で近況をこっそりのぞいてみて、ああ、がんばってるなぁと思い、少し妬ましく感じながらも、彼の行く手に幸せあれと、ささやかに願うのみです。
「もっと頑張れるはずでしょう?」
たぶん、今は私にとって雲上の人となった彼にも、「涙に震えながら戦うべきとき」があったはずだし、今も大なり小なりあるはずです。彼のスケールと力強さには、とてもかなわないけれど、私なりに走っていかなきゃならないんだと思いました。ずっとつづいていくこの坂道を。


05/05/20

あぁ・・・昨夜はもう、イヤってほど落ち込みました。もうね、首吊って死にたくなりましたよ。
いや、午後六時半ぐらいから夫と路上練習してるんですけどね、昨日は実際にロードテストが行われる現地に行ってみたわけです。あらかじめテストコースで練習すれば、免許獲得という目的には早道じゃないですか。
で、テストは一番最初にMVD(免許交付してくれる機関)敷地内の縦列駐車から始まるんですよ。それは三回チャンスがあって、二回までは失敗してもいい。うまくパスすれば敷地内を出て実際の路上を走るんですが、なんと右折しかないんですよ。ぐるーっと右回りにそのへんを一周して帰って来る。そんなに混んだりしない道ですから、簡単っちゃ簡単なんです。普通は車線変更しろと言われることもないし、問題なく走って帰れたらそれでOK。
私は、左折が苦手なので右折しかないのは嬉しいんですが、敷地内の縦列駐車ってどんなふう?と夫に訊いたところ、「日本と違って幅がゆったりとってあるからサルでもできる」とのこと、一抹の不安はありましたが、楽観視してたんですね。

だがしかし。
実際やってみたら、ぜんぜん上手く入らへんやん!!
なにが「サルでも」やねん、こんなん難しすぎるやないか!!
自分の未熟さを棚にあげ、夫に逆切れ。
で、夫は一応パスしてるわけだから、どうやるのか教えてくれと頼んでも、夫もなかなか入れられない。
ああでもないこうでもないと何度もやってみて、やっとこさ成功するという始末。
一体なんでパスしたんや、この人。ただのまぐれか??
訊いてみても、いっこうに要領をえない答え。「さぁ〜、気合ちゃうか?」
あのな。気合ですんだら警察いらんわ。もっとちゃんとやり方教えてくれよ!
私の場合、腕が痛くなってくるぐらい練習したけれど、いっこうに進歩する気配なし。ハンドルきってて、思わず涙がでてきましたよ、「なんで!?」って。
「なんでこんなことぐらいちゃっちゃとでけへんのや、この大馬鹿者が!能無し!死んでまえ!クズ!」
と、自分で自分にありとあらゆる罵詈雑言を浴びせまくりましたよ、心の中で。
誰もいない薄暗い敷地の一角で、わあわあ泣きながらハンドルに突っ伏してました。いい年して。

「おまえって、ほんま、こんなことで泣くなんておかしいぞ」
と、夫にさんざん「ガキ・病人・性格異常者」扱いされましたが、それまでのドライブで張り詰めてたものが、一気に崩れたっていうか。
やっぱ緊張してるわけですよ、ビクビクオドオド走ってるんです。夫にしても命かかってますから、
「おまえ、今のターン危ないで」「ああ、白線からはみだすやんか」「おおっ、もっと距離とってすれ違わんとぶつかるぞ」・・・
まー、運転してる間中、こんな感じなわけです。
夫だって、運転が上手いわけでもなく、つい最近免許とったばかりですからね、未熟者同士がひとつ車で走ってるんですよ。そりゃーあなた、怖いのなんのって。いや、私の後ろの車もたぶん怖いでしょう。自分でも怖いんですから。すみません、すみません、ご迷惑かけてすみません、と情けない思いです。
イヤになってきた・・・ほんと。
インストラクターのオジサンはさかんに「リラックス、リラックス。僕は君に楽しんで運転して欲しいんだ」と言ってましたが、なんも楽しくないやん。もともと何か動かすオモチャとか興味ないし。「車を自在に操ることに快感を覚える」人もいるけど、そういう性格だったらとっくに自発的に運転やってます。
私なんかアリゾナに来た以上、しゃーないから、必要に迫られてやってるだけですもん。イヤだけど。

もう消えてしまいたいくらいつらい。
まだ始めたばかり、そう思いたいんだけど、なんで他の人がサッサとできることが私にはできない?
なんかこー、脳のどこかに異常があって特定の物事に対する学習障害の気でもあるのではないでしょうか。
ああ、また涙がでてきた。気分はネガティヴMAX。
自分のダメぶりが許せません。なんでこんなに能なしなのか・・・


05/05/21

昨日、もうほんとうに落ち込んで、練習もしたくない気持ちでいたけれど、やっぱりイヤイヤながらもまたMVDの敷地へ行きました。もちろん、夕方オフィスが閉まった後です。誰もいないと思っていたのに、なんと先客が!!しかも、縦列駐車の練習しているではありませんか。運転しているのは女の子、それを外で見ながら指導しているのは男の子、まだ若いアジア系の二人づれ、たぶんASUの留学生じゃないでしょうか。
初めは「中国人か韓国人?」と思って英語で話し掛けたんですが、けっきょく同じ日本人とわかりました。
私たちも練習しにきたんですよーと話していると、じゃあ僕たち他にいってますからお先にどうぞ、と譲ってくれました。これ幸いと、練習にとりかかったのはいいんだけど、指導していた男の子とうちの夫の言うことに、けっこう大きな食い違いがあって、どっちが正解?と少し悩んでました。

つまり、敷地内の道路際でテストするわけですよ、道路の縁石は赤くペイントされていて、その30cmほど内側に、黄色いラインがひいてあります。要するに、車の片側の車輪を、この黄色いラインの内側に止めたらいいのか、それとも赤と黄色の中に入れるべきなのか、ということなんですが。
男の子は、「赤と黄色のラインの中に入れるんですよ。だって、ぴったり寄せるほうがいいんですから。僕、もう四人くらいにそう教えてましたけど」と。しかし、うちの夫は「ええっ、自分が合格したときは、たしかこの黄色のラインの内側に止めろといわれたと思ったけどなー」。いったいどっちやねん。
若者カップルが去ったあと、しばし話し合ってましたが、夫が、「やっぱりどう考えてもイエローラインの中やで。はっきり思い出してきた、この内側に止めろって言われた」と主張するので、その線に沿って練習しました。

もー、腕が痛くなるまでやりましたね。だけど、きのうの夜にやったときと違って、やっぱりまだ明るいですから目視もきくし、多少慣れたのもあるし、だんだんできるようになってきたんですよ。
日が暮れる頃には、うん、これでええんとちゃう?という感じの仕上がり。あれこれ言いながら見ていた夫も、
「これやったら五割ぐらいの確率で受かるかもしらんぞ。明日の朝、ロードテスト受けに来ようや、なに、失敗してもかまへん、またチャレンジしたらええし、練習の一環やと思ってやればいいんや」
私はすっかり気をよくして暗くなった道を鼻歌気分、だけど私たち夫婦、若者カップルと違って常から仲が悪いもんですから、またぜんぜん別のことで、帰宅途中、夫とのあいだに喧嘩の種がまかれてしまい、夕食中からは芽が出て葉が茂り花が咲いて実がなって、もうめちゃくちゃでしたけどね。アハアハ。
「これだけつきあって時間割いてやってるのに、感謝のカケラもないんか、おまえ。べつに誰もおまえに免許とって欲しいなんて言ってない。だけど運転できんとおまえが困ると思ってわざわざ練習につきあってやってるんやないか!」
「あっそう、そこまで恩着せがましく言うなら、私ひとりで練習するからもうええわ!」

そうなんです。私ひとりでも、まだ渡米して三ヶ月もたってないし、国際免許で運転できるわけですよ、実は。隣に誰も乗ってなくても。事故を起こしたらどうなるのか、そりゃ知りませんけどね。
激しい言葉の応酬に、怒りのあまりド根性が据わって、「クソッ、運悪く死んだら死んだときや!とにかく安全そうな道から始めて、地道に上手くなって絶対免許とったる!」と。きっと瞳のなかにはメラメラ炎が燃えてたと思います。エンジン全開!!
それがしばらくして、夫も頭が冷えたのかしりませんが「やっぱり明日、ロードテスト受けにいこう。おまえが冷静になるのを待ってたんや。一緒に行ったるから」と。
ハァ?ですよ。もう私はどうやって安全に練習すべきか、地図を見て研究しないと、と思ってましたから。
なんで夫が冷静になったかというと、自動車保険のことを考えたらしいですね。もし私が事故ったりしたとき、今入っている保険が有効かどうか微妙に怪しい。そのあたりを保険屋に確かめるまで、ひとりでの練習は待ってくれ・・・と、こうなんです。
まあ、そんなこんなで、けっきょく今日の朝、ロードテストを受けに行くことに。

今日のMVDはずいぶん混んでいてけっこう待たされたんですが、やっと順番が回ってきて、なんだかキツそうな早口の女性が審査官に当たってしまいました。まずは縦列駐車。手順をベラベラ説明されるんですね、で、肝心なところがわからなかったので、「この黄色のラインの内側に入れるんですね?」と訊くと、そうだ、という返事。
一回目のトライ。少し緊張していましたが、それだけに集中力もピーク。慎重にハンドル回して・・・
やったー!!入ったぁ!!猛特訓の甲斐があった!!ああ神々も照覧あれ、この完璧な縦列駐車を!!わっはっはっ!!
心で叫びつつ、外で見ている審査官の女性にニッコリ、「これでできましたか?」と訊いたのです。
そうしたら、「できたかどうかは、あなたが決めて。これが一回目でいいんですか?」と訊き返される始末。
何やこの女、エラッソーに。心で罵りつつ、「はい(いいに決まってるやん、完璧やん)」。

「じゃー、また最初の位置からやってみて。あと二回チャンスあるから」

工エエェェ(´゚д゚`)ェェエエ工 ・・・・なにそれ。ちゃんとイエローラインの内側に平行に止まってるやん!!
「でも・・」と言いかけると、審査官の女性、指で地面を指して、

「この赤いラインと黄色のラインの中に入れてね」

(; ・`д・´) な、なんやってー!!やっぱりあの男の子のほうが正解やったってぇー!!
い、いまさらそんな・・・もう身体が黄色の中って覚えてしまってるがな、そんな赤と黄色の間なんて練習してないがな・・・だけど、だけど、ああ、どうしたら・・・ええい、要はもう少し深めに突っ込めばいいんやろ・・・ありゃ、縁石に当たった、マズー、ああん、もうあと一回しかチャンスがないよぅ、神様たすけて〜〜〜〜〜!!!ドシン。
また縁石に当たった・・・・゜・(ノД`)・゜・。

「はい、じゃあ、車を向こうに止めて、オフィスの中で待ってて」

こんなふうに、私のロードテストは路上に出ることすらなく惨敗に終わったのでした。

いやぁ、オリンピックとかでフィギュアスケートなんか見てたら、一度ジャンプに失敗して転ぶと、動揺を隠せずに、二度三度と失敗する選手いますよね。
あーあ、精神力が弱いんやな、気の毒にと思ってましたが、わかる、わかるわ、その気持ち!
きっと彼らも練習のときはだいたい完璧に飛べてたんでしょう、だからこそ、「えっ、こんなはずはΣ (゚Д゚;)」というショックから、なかなか立ち直れないんですよ。

「気合や」とかわけわからんまぐれ当たり夫の言うことより、あの男の子の言うことを真面目に受け取っておけばよかった。やはり今日、テスト受けると言ってたあの女の子は、きっと合格したんだろーなぁ・・・
この行き場のない槍踊り、じゃない、やり場のない憤りをいったいどこにぶつけたらいいの!?


05/05/24

ああ・・・気分はまたしても鬱MAX。
もう鬱すぎて、書く気力もない。けど、書かないでいたら精神的にもっと不安定になるだろうから、キーボードをタイプしています。

●夫が忙しい&研究上の悩みでイッパイイッパイ
●私の国際免許を使って一人で走る練習をすることに保険屋は難色

まー、原因はこれですが。
今週の土曜にはまたオジサンとの教習のアポとってあるんですよね。その教習のあと採点してくれて、それがうまく合格点なら、オジサンがMVDに書類を回してくれて、あっちでロードテスト受けなくても免許もらえるんです。
私はそれに期待してるんですけど、いまから運転感覚を磨く練習はしとかなきゃいけない。
夫は土曜日まで待つのは無駄という考えで、今日にでも縦列の練習して、明日にでもロードテストに行けば、と。だけど、けっきょくそれで合格しても土曜日には教習あるわけだし、私としては、オジサンが合格点をくれなくても、ロードテストで注意すべきポイントをはっきりと教えてもらった後のほうが、いま闇雲に努力してみるより合格の確実性が高まると思うんですが。
夫の場合、二回落ちて、三回目にまぐれ当たり(そもそも縦列のポイントを勘違いしていた)で受かったかもしれませんが、やっぱりロードテストでのコツがあると思うんですよ。縦列駐車以外にも。それを教えてもらってからじゃ、なんで遅いんだろ。たかだか三、四日の違いなのに・・・なんで夫はああもイライラしているんだろ。

まだ二週間前に初めてハンドル握ったばかり・・・3日ほどサンノゼに行ってたこともあるけど、それ以外はほとんど毎日のように、一、二時間、夫につきあってもらって練習してますが、他にこんなこと頼める人がいない以上、仕方ないじゃないですか。そりゃ、日本にいたら、実家の両親や親しい友人につきあってもらえますが、こっちでそんな、「仮免だけど横に乗ってくれるか」だなんて、あつかましいお願いをできる知人なんていません。
ほんとに免許とってからでも、一人じゃ不安だからと初めは誰かに乗ってもらう人も多いじゃないですか。それなのに、まだ仮免の段階で、もしかしたら事故に巻き込まれるかもしれないのに、保険さえおりるんだったら国際免許を使って一人で練習したら、と思える夫の神経がわからない。
確かに提案したのは私ですが、もし逆の立場なら絶対に引き止めると思う。何かあったら、と心配じゃないですか。
いくら研究のことで頭一杯でも、自分が大学のパソコンに向かっているとき、まだ若葉マークもつけられないような妻がひとりで路上にでていて、運悪く無茶な運転をする車と接触事故を起こして大怪我をしたり、その後に手足が不自由になってしまったり、植物人間になってしまったりしたら、とか考えないですかね。大袈裟じゃなくて、そういう可能性はありますよ。運良く軽い事故であっても、私たち、携帯ももってないから警察やら保険屋に電話もかけられない。
考え始めたら自分でも怖いけど、うまくいかない研究にイラついている夫に同乗を頼むくらいなら、腹をくくってひとりでやろうと思ってました。だけど保険屋が難色を示したので、国際免許を使って一人で練習する計画は頓挫しました。
もしも保険が問題なくおりるんなら、
「車おいていくから、ひとりで練習できるやろ」
ということになっただろうと思います。そうしたら、夫のイライラもずいぶん納まってたはずです。

私、わざわざこんなアリゾナまでついてきて、夫にとっては邪魔なお荷物なんでしょうか。
まだ一人で運転できないというだけで・・・始めてから二週間にもならないのに・・・
これで小さな子供がいて、熱出したから病院に連れてって、とかしょっちゅうあったら夫はきっと頭爆発ですね。
「僕に頼らず、はやく自立してくれや」
日本でなら、私だって何の問題もなく余計な危険を冒すことなく暮らせるんですよ。買い物だって、病院だって、習い事だって、好きなところに行けるし、ひとりでできるんですよ。日本でならね。


05/05/25

鬱MAXから少し浮上、今日は運転練習を兼ねて夫をASUに送って来て、そのまま図書館でこれ書いてます。また夕方になったら私が運転して帰るつもりです。

最近(?)個人のブログが急増して、「チラシの裏にでも書いとけ、というような自己満足日記ブログが検索にひっかかってきて困る」という意見をどこかで読みました。
私はべつにいいんじゃないかと思いますけど。「名前もわからんオマエの書いた日記やら映画の感想なんか、誰も見たいと思わんから、チラシの裏にでも書いておけ」とまでは思わないです。現に、私のこのサイトだって「チラシの裏」の集大成みたいなもんだし。
どこの検索エンジンで、「ゴミブログ」を引き当てるのかは知りませんが、私はグーグルを常用しているので、それで言えば、検索ワードを工夫することで、自分の知りたい情報に早くたどりつけると思います。いかに的確な検索ワードを考えるか、ということですね。官公庁やら企業サイト探しなら、ヤフーのほうが効率いいと思いますし。

他人が何を考えてるのか、ということをうかがい知ることができる個人日記のようなものにも、けっこう面白い記事ありますよ。ふうん、世の中にはこんな生活して、こんなこと考えてる人もいるのかって。たとえば五十代男性同性愛者の日常、とかね。ちょっと私とは別世界じゃないですか。なんでもない独り言が、下手なプロ作家の創作より興味深い。
本やビデオの感想だって、いろいろ参考にします。べつにプロ批評家の勧めるものが、自分の感性にヒットするとは限らないし、お金がからんでの批評記事なら、なおさらですよね。それをことさら有難がるなんて、権威主義な人も多いんだなぁと思います。
私はこの映画を見ようかな、と思ったら、実際に見てきた人の感想をけっこう興味深く読みますけど。デビルマンが映画化されたときも、すごく見たかったけど、公式サイトで見たCM動画がショボすぎたこと、ネット上で大変に評判が悪かったことで、「わざわざ足を運ぶ必要なし」と判断しました。
私としては個人サイトやブログなどは、あまりに内容がなさすぎるものは自然淘汰されていくと思うので、何も「チラシの裏に書いてろ」とまで罵倒しなくてもいいんじゃないの、という感じです。

私にしても、読んでくれる人がいるから書く、という側面が大きいのですが、書きたいから書く、書くことが日常の一部になっているから書く、どっちが先かと問われれば、後者です。
「よーし、いっぱい人が見てくれるサイトつくっちゃうぞー」というより、
「こんなこと考えた。書いておこう。読んでくれる人、わかってくれる人いるかな」っていう感じ。
だから、書きたいことがなくなったらやめると思いますし、チラシの裏に書けといわれても、あたしゃこのスペースを個人の金で買ってるんだから、これをチラシの裏がわりにしても自由でしょ、と。イヤならアクセスしなきゃいいんですよ。検索でひっかかるのは私のせいじゃないし、もっと検索上手になってくださいとしか言えません。

このダイアリーでは、初めの頃よりもっと生身の自分が出てると思います。
「夫とふたり、アリゾナ珍生活はじめましたぁヽ(´ー`)ノ」
というような、涙と笑いの人情モノふうにしてもよかったんですが、その調子で続けてしまうと、私にはリアリティないんですね、ツクリモノっぽいんですよね。もちろんこのサイト自体が私の創作私小説であると言ってもいいのですが、なんかもう少し私個人にひきつけた「ほんとうのこと」を書き残していきたいんですよね。「オシドリ夫婦の漫才スレスレ海外ライフ」みたいな「けっきょくホノボノに落ち着く寅さん的なもの」を期待されてる向きには申し訳ないですが、今後ますます、このダイアリーは、日常のなかで私個人から見たもの考えたこと、「私」の主観的真実がメインになっていくはずです。なぜって、この先、何年もこのサイトが続いていくということはないはずですし、だからこそ、いままで躊躇してきたことも、これからは言葉にしてみたい気がするんですよ。もちろん、それなりの配慮はしますけれど。

まあ、確かに何を書こうと一銭にもならないチラシの裏です、もちろん。それが無意味だと思う人もいるし、なんの病か、白い紙があると「そこに何かを書いておきたい」と思っちゃう人もいるんですよね。そこに山があるから登るのだ、みたいに。官公庁や企業、有名人などの「公式サイト」がチラシそのものだとしたら、私たちのような零細個人サイトはチラシの裏。いいじゃないですか、リサイクル。っていうか、表があれば裏がある。あたりまえのことだと。ときには表の情報よりも裏の情報のほうが役に立ったりもするんですよ、少なくとも私はいままでの経験からそう思います。
だから、幾万人のブロガー、個人テキストサイトの管理人たち、気にせず書こうじゃないですか、このネットという壮大なチラシの裏に!
どうせ私たちはビョーキです。


05/05/26

またまたASUの図書館に来てます。今日はアダプターも持ってきたし、机のとなりにコンセントはあるしで、快適快適。ネットはもちろんASUにログインしてます。いやー、家でやるより早いわ。
だって、日本でADSLやってたときは常時2000k(ビット/秒)はでてたのに、今のアパートメントだと500kが精一杯。ひどいときにはぶちぶち切れてる。かったるいし、頭に来ますよ、毎月けっこう払ってるのに。この図書館では平均840kだから、まずまずマシ。クーラー効いてて涼しいし、今は大学が休みなので学生もいないし、がらすきの使い放題状態。

昨日は結局、退屈すぎて夕方までいられず、一人でバスで帰ろうと思いついたんですね。
で、大学のインフォメーションカウンタで訊いて、バスの乗り場まで歩いたんです。外は40℃に手が届きそうな暑さ、私は日焼け止めと日傘で強烈な日光を防御。しかし、このアスファルトからの照り返しと、熱気だけはどうしようもないですね。乾燥しているので、汗をダラダラかくというより、汗は瞬間的に蒸発してしまい、身体から水分が失われて喉カラカラになります。それも、けっこう急激にきますね。さっきまで平気だったのに、しばらくしたら「あー、もうダメ、水、みず〜〜〜!!」って。
ほんとアリゾナ砂漠での外出は、注意しないと炎天下を無防備に歩くだけで倒れます。私の体感では、水よりもスポーツ飲料のほうが効きますけどね、やっぱり、だてに「すみやかな水分補給」を謳っているだけじゃない、ほんとにすーっと身体にしみわたる感じです、水よりも吸収率がいいんじゃないでしょうか。喉の渇きが収まるのが早いです。
こっちではどぎつい色をつけたカラフルなゲータレードとかパワーエイドなどという商品が売られてますが、私はアクエリアスのあのサッパリ味と透明さが恋しいです。ほんとに真っ赤とか真っ青のゲータレード見てると、「あー、身体に悪そう」って思ってしまって。あんなの日本じゃ売れないですねぇ、なんかマジ不健全そうだもの。私は、できるだけ透明なスポーツ飲料を探して、冷蔵庫にストックしてます。

マップ片手に炎天下を歩いていると、後ろからミニバスが。クラクションを鳴らすので、何かと思って近寄っていくと、大学構内を無料で巡回している「フラッシュ」と呼ばれるバスなんです。私は校外の道まで行ってバスに乗らなきゃいけないから、というと、もうそのときはすぐそこに道路が見えていたのに、「まあいい、すぐそこまででも乗ってけ、乗ってけ」という感じで、巡回路にしたらほんの15mぐらいなのに、乗せてくれました。降りるとき、ご親切にも「あそこに見えるのがバス停だからね」と教えてくれて。
バス停まであと10mぐらいを歩いていたら、ちょうどバスが来るじゃないですか。きゃー、待って、乗せて〜〜!重いパソコン背負いながら、必死でノロノロ走る私。バスの扉は開いたまま。いつ閉まるかわからない。そしたらいつ次のが来るかわからない。たぶん十分か十五分おきには来るんでしょうけど。でも、この炎天下、五分でもけっこうつらいものが。待って〜〜!と、手を振りながら走る。ギリギリ間に合うか、間に合わないか・・・日本のバスなら、たぶんもう扉閉めて行ってましたね。でも、けっこう待ってくれて、こっちの人は親切だぁ〜、と改めて思いました。

そう。アパートのオフィスのおねーさんも、リペアでやってくる人も、バスの運転手さんも、大学で道を尋ねた先生らしき男性も、図書館に入るときに後ろを向いて、まだ私がずっと離れてるのに扉を支えて待ってくれていた(おかげでこっちは小走りに)男子学生(?)も、みぃんな親切。アリゾナに来てから、私ひとりのとき、つっけんどんにあしらわれたり、冷たくされた覚えはないなぁ・・・あのドライビングスクールのオジサンだって、けっきょくはいい人だったし。ああ、そうそう、MVDのロードテストで当たった審査官の女の人はちょっとキツい感じがしたけど、まー、仕事だし、混んでたし。意地悪されたわけじゃない。
よく考えたら、一緒に住んでる夫が、私に対して一番キツイんだわ。
今日だって、運転練習がてら夫を大学に送ってきて、そのまま研究室で涼んでいたら、いきなり、「おまえ、どっかいけや。気が散るやないか」。
私は窓際で椅子に座って、物音も立てず静かに2ちゃんねる見てただけなのに。
研究に没頭できてないから、周りのことが気になるねん。ほんとに一生懸命やってたら、誰がそばにいて何をしていようが、気にならないはず。
「パソコンばっかりすんな、アホになるぞ」「英語の勉強しろ」「邪魔やねん、さっさとどっかいけ」・・・・
あのな。人にそんだけエラソーな物言いするなら、

はよ研究の成果だせや (゚Д゚)ゴルァ!

はは。言うたった、言うたった。
研究のこと、何もわからんから、何の口出しもせんかったけど、向こうが私の行動にイチイチいちゃもんつけるんやったら、私だってこれぐらい言ってもいいやろ。
それから。
扉を開けたら、後ろの人のために手で押さえとくのはマナーの初歩。私にはそんなことせんでもいいと思ってたら、いつか絶対、他の人の前でもそういう態度がでるから、今後気をつけるように。
お昼時、食事をしながら、
「私、あんたに会うまでは、『男の人は私に親切にしてくれるもの』と思ってた」と言うと、
「それは、M君に会うまでは、やろ?」
「いいや、M君に会うまでに(unfortunately、を挟みたいところ)、あんたに会ってしまってるからな」
いくら研究バカ仲間のM君やFタンでも、この炎天下、

「邪魔だから、さっさとどこか行って」

とはなぁ・・・言わないと思いますよ。いや、もしかして言うかも。でも、言わないと信じたい。
そんな冷血人間は夫だけでじゅうぶんですから・・・(-_-)


05/05/28

もう5月もそろそろ終わり。アリゾナに来て、まる三ヶ月が過ぎようとしています。
精神状態はまあまあだったり良くなかったりですが、なぜか体調はわりといいです。現に、太ってきました。
医者から、せめて40kgは欲しいと言われていた私、39kgからなかなか太りませんでしたが、ここに来て完全に40kgを突破しました。なんなんでしょうね、食べ物のせいか?気候のせいか?やっぱり適度な運動だと思います。買い物に行っても、とにかくだだっ広いので、あれこれ買っているうちに歩かされますし、何もかも重くてかさばるので腕力も使います。適度な運動は、かえって太る。私のような「太らなきゃいけない人」にはいいけど、痩せたい人は要注意。やはり、運動よりもダイエットですよ。

前にリバモアで一年間住んでいた経験があるせいか、「アメリカの生活ってこんなもん」と慣れるのは早かった気がします。まあ、気候や町の雰囲気が違うので、そのへんで初めは馴染めなかったりもしましたけど。でも、最近、運転の練習をしながらあちこちに行くので、町全体の規模っていうか、つくりがだんだんわかってきて、そうすると、「ここに何がある、あそこには何がある」という知識が増え、生活自体がやりやすくなりますね。どこに行けば何を売ってる、この店はマズイ、この店は美味しい、この道は混んでるけどあの道は空いていて走りやすい、などの情報が、自分のなかにあればあるほど気が楽になりますから。
そういう意味でも、早い時点で運転にトライし始めたのは正解だったと思います。

昨日も夕方からMVDの敷地に行って、あいも変わらず縦列駐車の練習しようとしたんですね。行く道すがら、
「もしかして、あのカップルもまた来てたりして」
「あの兄ちゃん、今度は別の女連れてたりして」
「ハハハ、まさか〜」
とか、笑ってたんですよ、そしたら!きゃー、ほんとにいるじゃありませんか。
ビックリしましたよ。同じ車の助手席に、あの同じ兄ちゃんが乗ってて。
私たち、一瞬顔を見合わせてとりあえず挨拶しようかなと、すぐ後ろのほうで車停めたんですよね、そしたら練習していた彼らは、なぜかそそくさと行ってしまいました。譲ってくれたのかなーと思って、練習始めましたが、声が聞こえないほど遠くのほうに停車している彼らのほうを見れば、あの兄ちゃんは同じ人物だけど、女の子のほうは別人???なんかそんな感じだったんですよね。それで、私たちを避けるみたいに行ってしまったのかなぁと。
「この前の女の子、試験に受かりました?」
とか訊かれるのが気まずかったとか。

夫は「あいつ、『運転教えてやる』ってもちかけて、何人の女釣ってるんや」と羨んで憤慨してましたが、私、案外、女のほうも承知で、ギブアンドテイクなんじゃないかと思います。
だって・・・若い男女が狭い車のなか、誰もいない敷地内で二人きり、夜も暗くなるまで練習してるんですよ。男なら下心がないわけがないし、女だって、その下心が見抜けないわけがない。男って薄情なもんです、「教えて」と頼んできた相手が超ブスで、何の下心も抱けないようなら、「いやー、ちょっといま忙しいから」とかなんとか断るでしょ。わざわざ暑い中、熱心に教えてあげてるのは、やっぱそれなりに見返りを期待して、ということなんじゃないの?
いやーん、不潔!とは思わないけど、フーンって感じですね。なぜか夫は、「こんなん人の道に外れたことや、何をやっとるんや、あの男は!どうせ学生のくせに!フン!」と妄想突っ走り状態で、しきりに羨んで憤慨してました。そんなにこの人、嫉妬心道徳心が強かったのかなぁと思いましたけどね。

あー、明日はあのオジサンと、二回目の教習。前はオジサン、けっこう誉めてくれたので、その期待を裏切る結果にならなきゃいいんですけど。「あまり上達してないな、練習してなかったんじゃないか?」と思われたら辛い。こんなに(私にしては)頑張ってるのに。


05/05/29

みなさん、聞いてください、やった、やりましたよ、あのインストラクターのオジサンとの二度目の教習&テストで、ついに、運転免許が取れました!!
昨日、オジサンから電話がかかってきて、「明日は練習だけにするか、それともテストもするか」訊かれたんですよね、私はダメ元でテストもやりますって答えたんです。テストといっても、街中をずーっと彼の言うままに走るんですよ。それを三時間やって、とくに問題がなく走れると判断してもらう。すると、彼の路上教習をきちんと卒業したということで、MVDにロードテスト不要、合格に匹敵する能力あり、と証明してもらえるわけです。
ある意味、MVDのロードテストよりずっと厳しいかも。ロードテストでは車線変更も左折もなくて、縦列駐車したあとは十分そこらで走れる距離をぐるっと回ってくるだけですから。こっちは、(途中、少し休憩はあったけど)三時間、オジサンの言うとおり走って(もちろん右折・左折・レーンチェンジあり)神経すり減らしましたよ。

今まで練習してきたので、時々こまかい注意をされるだけで、特に問題なく雰囲気良く走れたんですが、あと少し、自分のアパートまで帰るその途中でオジサンの指示したことが一瞬わからなくて、反対車線を渡りかけたまま車をストップさせてしまったんです。そしたら、それまで鼻歌なんかも出てたオジサンが、「アクセル!アクセル!こんなところで止まるんじゃない!人の言うことちゃんと聞いてるか?!」と、えらい剣幕で怒るもんだから、私はもう本当にパニクってしまいました。お説教もされて、もう内心がっくり、これで免許はダメだな・・・と。
そのあと、少しだけ走ってアパートにたどりついたわけですが、意外なことにオジサンが、「さっきは怒鳴って悪かった、そもそも自分も不注意だった、謝るよ」と。「いえ、あれは私のミスでしたから」「いや、あれは僕らふたりのミスだ」とかいうやりとりがあったあと、MVDにもっていく卒業証明を書いてくれたんです。てっきりもうダメだと思っていたけれど。

「ほら、この書類に必要事項を書いて、この証明書をMVDに持っていけば、免許を発行してもらえるよ。君はとてもよく練習していたね、前回よりずっと上達していたよ」
「ありがとうごさいます、あなたは前回のレッスンで、私のことを誉めて勇気付けてくれました。私はあなたをがっかりさせないように、一生懸命、努力して練習することができたんです」
「僕らはいい友人だ、君がこの夏、楽しくドライブできることを願ってるよ。安全運転してくれ、僕のためにも」
「ほんとうにありがとう、あなたは私を自由に、そして自立できるようにしてくれました」
「それは、君にとっていいことなのかい?」
「もちろん。ほんとに感謝しています」
なんか、ほんの少し前まで、もうダメだと思ってただけに、ウルウルきてちょっと泣いちゃいましたよ。
最後は、オジサンと軽くハグして別れました。久々にいい師弟関係って感じでした。

思えば仮免をとってから約三週間。
耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び、自分の不甲斐なさに涙し・・・でも、ついにやり遂げましたよ、免許とりました。今度はペーパードライバーにならず、どんどん活用します・・・っていうか、ここでは車のれなきゃ話にならないし。
車に乗ることなんて、もう慣れちゃってる人にとっては「たかが運転ぐらい」かもしれませんが、私にとってはその一歩がなかなか踏み出せなかったんです。人類で初めて月に降りたったアポロ11号のアームストロング船長の言葉をお借りすると、「これは他人には小さな一歩かもしれないが、自分の今後にとっては大きな一歩となるだろう」。そんな気持ちです。

♪免許が取れて ほんとうに 良かった
  うれしくて うれしくて 言葉にできない la〜la〜la〜



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